マクロネシア紀行     金子 遊

第1回 ふたつの多島海

  1

 真夏の山道を車で走っていた。息苦しくなるほど真緑に萌える杉林に、傾きかけた陽がオレンジ色の光を斜めに投げかけている。S字に曲がりくねった道をあがっていっっても、ちっともそれらしい目印は見えてこず、段々と心細くなるばかりであった。

「本当にこんなところに現代アートなんてあるのかな」

 助手席に座っている女はつぶやいた。彼女はトリエンナーレのフライヤーに印刷された地図を見つめている。ときどき思うようにならないことがあると、口先を鳥のようにつぐませるのが癖なのだ。東京で出会った相手だが、実家が芸術祭の開催される新潟県の十日町の近くにある。地元を案内してくれるはずが、あまり頼りにならないようだった。

 この辺りのはずだと女がいうので、車を道路脇に停めた。ドアを開けると、森のなかのひんやりした冷気がほおに触れて、遠くからひぐらしの声が聴こえてくる。じゃり道を棚田にむかって歩くと、驚いたアオガエルたちが水面に飛びこんでいった。そのあわてた姿を見て、ならんで歩く女がフフッと笑った。

「ああ、きっとあれのことね」

 彼女が指さす棚田の最上段を見あげると、小さな建物と木製のオブジェらしきものが見えた。その背後は山の入口で自然林になっている。屋外に展示されたアート作品の入り口は田んぼのあぜ道になっており、その横に木彫の映画カメラをかまえた長髪の男の像があった。カメラの視線の先に、茅ぶき屋根をもつ高床式の小屋が建っている。その壁に大きな水牛の頭骨が飾ってあったが、近づいて見るとわらで編まれたものだった。

戦後のラブレター「戦後のラブレター」(撮影筆者)
 標識の説明書きには「戦後のラブレター(イフガオの棚田から新潟の棚田へ、愛をこめて)」と作品のタイトルがある。フィリピンの映画作家であるキドラット・タヒミックが、2009年にルソン島のイフガオ族の人たちと大挙してこの土地をおとずれて、フィリピンの棚田から移設したインスタレーション作品である。棚田を見下ろす小屋、イフガオ族の長老が口述伝承を語るための石の広場、そして二体の木造のトーテムポールから、この作品は成っている。

「見て見て、このポールなんか変だよ」

 何か気づいたようなので、彼女がいるほうへ歩いていく。いうまでもなく、トーテムポールはアメリカの先住民が神話や氏族の歴史を伝えるために木柱に彫刻をほどこしたものだ。しかし、タヒミックの作品はプリミティブ・アートの再現ではまったくない。一方の柱にはイフガオ族の台風の女神が彫られており、それが口で吹いて暴風を巻きおこしている。そして、もう一方の柱では、マリリン・モンローがその風でめくれそうになるスカートを手で押さえているといった具合だ。有名な『七年目の浮気』の1シーンからの引用だろう。その他にも、トーテムポールにはシルベスター・スタローンが演じたランボーの姿やミッキーマウスのキャラクターが彫られていた。

「少数民族の精霊とアメリカのポピュラー文化をならべているのかな」

「うん。タヒミックはフィリピン人だけど、ペンシルバニア大学で経営学の修士号をとってOECD(経済協力開発機構)のエコノミストとして働いていたようなエリートだったんだ。30歳を目前にして卒業証書をやぶり捨てて、ミュンヘンのヒッピー・コッミューンで美術家として活動をはじめた。フィリピンに戻ってからはバギオで家族と暮しながら、ルソン島の山中に済むイフガオ族のロペス・ナウヤックに師事をして、彼らの文化を学んでいる。おそらくこの石の広場は、消滅してかけた棚田を再生したり植林活動をしたりする賢者が、イフガオの伝統的な叡智を伝える場を模したものだと思う」

「どうしてモンローやスタローンが出てくるの」

「フィリピンは長らくスペインの植民地だったけど、1898年の米西戦争の結果、20世紀はアメリカに支配されることになった。だから、いまではタガログ語はアルファベットで表記されているんだ。タヒミックはその映画やアートのなかで、自分がジャズやロック、ボードヴィルやハリウッド映画といったアメリカ文化にでっ育ったせいもあるのか、政治経済だけではなく文化的にも支配されているフィリピン人のあり方に警鐘を鳴らしている。だけど彼は生まじめな方法ではなくて、自分たちを「第三世界の人間」として揶揄しながら、寓話的で喜劇的な体裁をまといながらそれをやる。このトーテムポールもどこか笑ってしまうような表現でありつつ、よく考えるとポスト植民地としてのフィリピンを批評しているようなところがあるね」

「ふうん、なるほどね」

 彼女はそういって、今度は高床式の小屋に近づく。少しはなれた位置から見ると、茅葺き屋根と高床式ということもあり、弥生時代や古代に見られた倉庫に似ている。雲南省とミャンマーの国境にまたがって暮らすワ族にも似たような建築様式が見られる。このイフガオ族の小屋には、丁寧なことにネズミ返しも付けられていた。女は丸太でつくられた原始的な階段をのぼり、小屋のなかに入っていく。すると、フィリピン人を模した大きな人形があって、タヒミックが「フィリピンふんどし」と呼んでいる前かけが、さまざまな廃品やがらくたで編まれていた。一種のコラージュ作品というか、戦後のフィリピン文化を構成してきたコカコーラの蓋やマルボロの空き箱などを編みこむことによって、彼らが享受してきた消費文化が象徴されていた。

 高床式の小屋から下りようとして振り返ったとき、目に入ってきた光景に驚いてアッと声をあげた。縦長の長方形のフレームになった出入り口のむこうに、ここまで歩いてきた棚田が広がっているのだが、その場所からながめると、それがとても日本列島の風景には見えなかったのだ。わたしたちはしばらくのあいだ、出入り口のまえで腰をかがめたまま、自然の風景から切りとられた一枚の絵画の美しさに見とれていた。

「こういう光景なんだろうね」
「きっと、そうよ」

 と彼女も同意した。階段をあがって高床式の小屋に入り、うしろを振り返るだけで、ルソン島の山地にあるイフガオ族の棚田へと瞬間移動していたのだ。タヒミックがフィリピンと日本列島という同じ太平洋にある多島海において、両者の差異よりもむしろ類似点を見つけてきたことに感嘆した。イフガオ族の民族衣裳を「フィリピンふんどし」と呼ぶこと。そして、アメリカとの戦争に敗北したあと徹底的にアメリカ文化の洗礼を受けたが、田舎にいけば昔ながらの棚田の美しさを保存しているふたつの土地。そのことを体験的に気づかせるのが、インスタレーション作品のねらいであり、タヒミックが「戦後のラブレター」というタイトルをつけた理由であろう。意外なことに、わたしたちは越後の山間部において、もっとも美しいフィリピンの風景を見いだしていた。

  2

 数年後、わたしはビサヤ諸島の島にある港に立っていた。

 三月とはいっても、昼は35度まであがる真夏の暑さである。帽子をかぶるか日傘をささなくては、熱帯のじりじりとする陽光によって倒れてしまう。ホテルを出て、交通の行き来がはげしいリサル・ストリートを歩いていくと、イロイロ市のセントラル・マーケットが見えてきた。イロイロ市はパナイ島にある35万人くらいの都市だが、6つの大学を擁しており、町中を歩いていると制服姿の大学生たちの姿が目に立つ。じきに小さな商店が立ちならぶ問屋街になってきて、衣料品街と金物屋街を通りすぎていった。

 対岸の島にわたる前に、軽く腹ごしらえをしておこうと思った。褐色の健康そうな肌に、白い半袖のシャツを着た学生たちにまざって、街角の小さなレストランでロミを注文した。中華麺を煮こんだヌードルで、具材にはさまざまな野菜と鶏のレバーが入っており、それを溶き卵でとじている。熱々のスープを飲むと、とろみがついていて、いかにも庶民のソウルフードといった趣きだ。ビサヤ諸島で何か手軽に食べたいときはロミか、豚の臓物をヌードルと一緒に煮こんだバチョイ、あるいは、いろいろなバリエーションのある焼きそばのようなパンシットを頼むことが定番であった。

ギマラス島へ渡るバンカーボートギマラス島へ渡るバンカーボート
 フェリーターミナルに着くと、派手な水色に塗られたブロックづくりの券売所のまえに、人びとがならんでいた。ここから海峡をわたって、ネグロス島やギマラス島に行くフェリーやボートがでている。港のまわりには七色のパラソルを開いた果物売りや、スナックやジュースをならべた売店のスタンドがあり、木製のリヤカーを押す港湾労働者たちがいて、バスケットボールのゴールの下で子どもたちが遊んでいて、人びとで活気にあふれていた。日本列島には6,852の島があるというが、フィリピンは7,017の島々がある群島国家であるそうだ。その多くがルソン島とミンダナオ島のあいだにはさまれた、ビサヤ諸島にある小さな島々だ。この諸島を見てまわるのに便利な方法がアイランド・ホッピング、つまり船で島から島へとわたり歩く方法である。

 ターミナルの艀に、黄色と緑の二色に塗られたバンカーボートが入ってきた。ボートの両脇にアメンボの脚のようなアウトリガーがついており、多少の嵐がきても安定がとれるようになっている。わたしたち乗客が乗船を終えると、バンカーボートは音もなく小さな港をはなれた。少し沖にでただけで海はエメラルド・グリーンに透きとおってくる。対岸にはギマラス島が見えている。島影が見える内海を航行する感覚は、八重山の島々をフェリーで移動するときのそれに似ている。八重山諸島とビサヤ諸島というふたつの多島海の経験を比べながら、ヤポネシアという言葉について考えをめぐらせた。 島尾敏雄がその言葉を使うとき、それはひとつの歴史や地理的空間をもつ単系列の国家ではなく、古代的なものも近代的なものも混在するネシア(ラテン語の原義で「諸島」の意)を意味していた。

そのまえに断っておきたいが、私は「ポリ」や「ミクロ」をたんに空間的に考えているのではない。大陸文化の圧倒的な流入のもとにさらされながら、征服されず自分にひきつけて消化した、いわば複合文化体をそれを意味すると同時に、また日本列島内部の諸空間の意識の重層性を意味するのであり、さらには、日本の資本主義の跛行的な進行がもたらした現象をも含めているのである。そこには、他の「ネシア」社会とはちがうヤポネシアの独特の位置づけがあるのだ。(…)こうした「ポリ」でしかも「ミクロ」な特質をもったヤポネシア社会は、日本という国家の成立以前から存在し、日本列島に住民の生活があるかぎり存続する。
(「〈ヤポネシア〉とは何か」『沖縄 その危機と神々』谷川健一著)


 民俗学者の谷川健一は、多島海の島々に暮らす人たちの特徴として、単一のモノネシアとしての共同性に寄りかかり、大陸的でマクロな共同体にあこがれをもつことを指摘する。しかし、多島海ではさまざまな出自の人たちが異なる言語や文化を保持しつづけ、それが共時的に重層しているという意味では、ポリ(ラテン語の原義で「多くの、重合された」の意)+ネシア(諸島)というほうが近いかもしれない。とはいえ、谷川が批判的な意味で使う「マクロネシア」という造語には何か抗しがたい魅力がある。それが大陸的な共同体への憧憬という意味でしかないならば、立ち止まって考える必要はないが、それを多島海同士の響きあいや島々のネットワークを意味する言葉へと展開できるのであれば、詩的な想像力によってつなぎ合わせてみたい誘惑に駆られる。

 ギマラス島はのんびりとした小島だった。港でバイクタクシーを雇い、島めぐりに出かけた。町中を抜けると、背の高い椰子の木が目立つ熱帯の植生になった。その間に間に民家があって、棚田というほどではないが、低い段々畑のようにして田んぼが広がっている。そして、海岸沿いのあちこちに小さな漁村が点々と散らばっている。この島を有名にしているのは世界一おいしいといわれるマンゴーだ。マンゴー栽培は15世紀にインドネシアから伝わってきたという。日本列島に暮していると対馬と朝鮮半島の近さ、稚内とサハリン島の近さ、八重山諸島と台湾の近さをのぞけば、国境を超えた島々のネットワークをあまり意識することはない。だが、フィリピンとブルネイやインドネシアは、ほとんど島伝いでつながっている。

 マンゴー畑に立ち寄ると、常緑の葉が茂った低木がきれいに列をなしていた。農園の人が保護するための新聞紙をとると、緑色のたっぷりとした果実が顔をのぞかせた。ギマラス島のマンゴーは、カラバオ種というとても甘くなる品種だという。黄色く熟れたマンゴーをもってきて、その場で包丁を使ってストンストンと三枚におろしてくれた。それから、切った実にさいの目状に包丁を入れて、皮のほうから押して反り返らせて「はい、どうぞ」と差しだした。ひと切れを口に入れると、つるりとした独特の食感とともに甘さと少しだけの酸味が口のなかに広がった。

「どうしてこのマンゴーはタガログ語でカラバオ(水牛)種と呼ばれているんですか」

 種のまわりについた果肉を前歯でこそぎ落とし、マンゴーをしゃぶるように食べながら質問した。

「それには有名な逸話があって。むかし外国からきた商人が生まれて初めてマンゴーの実がなっているのを見た。それで近くにいた農夫に、あれは何ですかと訊いた。そうしたら、農夫はマンゴーの木につながれている水牛のことを訊かれたのだと思って、あれはカラバオ(水牛)だよ、と答えた。それでその名が広まったらしいね」

 農園の人は答え慣れているのか、すらすらと話してくれた。

 南国の果実でいっぱいになったお腹をかかえて、農園から近くのビーチまで歩いておりていった。雲ひとつない青空に椰子の木が伸び、白い砂浜が浅瀬に広がっている。家族連れや女の子同士の集まりが、めいめい浮き輪をうかべて遊んでいる。砂浜に横になって読書をしていると、小さな黄色のカヌーが浜にすべりこんでくる。真っ黒に日焼けした上半身裸の少年がカヌーから飛びおりた。彼が舟からおろしたバケツを見せてもらうと、ピンク色の鯛や見たことない熱帯魚が泳いでいた。若い世代にも伝統的漁法が息づいているようだった。海のむこうには、うっすらとイロイロの街が見えていた。

  3

 フィリピンは熱帯の多島海であり、めまぐるしく表情を変える褐色の美女である。

 シナグ・マニラ映画祭がはじまるので、ビサヤ諸島でのアイランド・ホッピングを終えてマニラにもどった。8月に開催されるシネマラヤ映画祭とならんで、それは国内のインディーズ作品を紹介するショーケースとなっている。キドラット・タヒミック、ブリランテ・メンドーサ、ラヴ・ディアスといった巨匠のみならず、フィリピンでは若い世代の台頭がめざましく世界中の映画人が注目している。巨大な都市のあちこちにあるショッピングモールのシネマ・コンプレックスを利用して10箇所前後で開催されている映画祭だ。午前中から夜まで一日平均4本の作品を見たが、どの映画も客席はガラガラで世間的な認知はまだこれからという様子だった。

 マニラのショッピングモールにいる分には、この国の7パーセント近い経済成長率を実感することができる。世界中どこにでもあるファストフードとカフェが軒を連ねて、グローバル企業の化粧品と衣料品のブランドがテナントで入っている。物価は日本と比べると、だいたい三分の一といわれるが、モールでの物価は欧米や日本とさほど変わらない。いったい、人びとはどのようにやりくりしているのか。新聞記事を読むかぎりでは、富裕層と貧困層のあいだの貧富の差がますます広がっており、人口の半分近い人が自分の家庭は貧しいと感じているという調査もあるくらいだ。

 映画を長く観ると興奮して眠れなくなるので、ベッドに入る前に繁華街にあるバーでビールを飲んでいた。ごくふつうのショットバーに入ったのだが、どこで誰が見ていたのか、日本列島からきた成年男性がひとりで飲んでいると伝わったものらしい。気づくと、店の入口に体のラインにぴったりフィットした黒ワンピースを着た女の子が立っており、サンダルのヒールの音をカツカツとさせながら、まっすぐにカウンター席まで歩いてきた。わたしは「やれやれ」と胸の内でつぶやいた。美しい南国の島々を旅するのだけがフィリピンではなく、淫靡な夜の都会もまたこの群島の横顔なのである。

「お兄さん、ひとりなの? さびしいねえ」
「驚いた、日本語を耳にしたのは久しぶりだ」

 そのような目的はまったくないことを説明してから、彼女にとなりの席を勧めた。名前はエラといった。うすい茶色の髪と大きな目が特徴的なかわいらしい娘さんで、褐色の肌とピンク色のルージュの取り合わせがエキゾティックに見映った。最初は21歳だといったが「本当か」と訊くと、あっさり26歳だと白状した。名古屋に2年ほどいたというだけあって日本語は流暢だった。マニラにいるとタクシー運転手から盛んにエスコートガールを勧められるが、バーの店長も似たようなものなのか。お酒を飲みながら商談が成立すれば、一緒にホテルの部屋へ帰るというシステムらしい。エラはこちらを誘惑するように、何度もワンピースからすらりとでた両足を目の前で組みかえてみせた。

「どうして君みたいに若くてきれいな女の子が、こういうことしてるの?」
「うーん、やっぱりマンションの部屋を買いたくて。お金をたくさん貯めて、マンションを買ったら結婚する。子どももたくさんほしい」

 フィリピンの人が家族をとても大切にすることは、どんな商売の人でも変わらないのだろう。いま漢字の勉強をしているのだといって、彼氏とのLINEのやり取りを見せてくれた。彼女たちにとって日本語の読み書きは、日常会話をおぼえるよりもずっとハードルが高いはずだが、エラはかなりの努力家の様子だ。大阪にアキラという一個下のサラリーマンの恋人がいて、出張のたびにマニラにやってくる彼と会うという。一方で、彼女は主に日本人を相手に夜の商売をしていて、せっせと貯金をしている。そこに矛盾や罪悪感は感じていないようだ。明日散策する予定のトンド地区が最近はどんな状況であるのか、いろいろと情報を聞きだしてから、そのバーで別れた。

 実はいうと、わたしがビサヤ諸島をアイランド・ホッピングしながら読んでいた本のうちの1冊は、エドガルド・レイエスの小説『マニラ――光る爪』の翻訳だった。前述のように、スペインやアメリカといった列強による政治経済的な植民地支配が長かったフィリピンだったが、1960年代の後半になると、エドガルド・M・レイエスら若い世代がタガログ語の文学にリアリズムを導入し、社会の不正や腐敗を描くようになった。

『マニラ――光る爪』で、失踪してしまった恋人のリガヤを追って農村から出てきたフーリオという主人公は、建設労働の危険な仕事にありつく。仕事仲間は宿なしやスラムに暮らす貧困層ばかりで、ぼろぼろの服を着て、低賃金の日雇い労働をくり返すだけの毎日。そんな希望のない都会の暮らしのなかでも、建設現場の仲間がすぐにフーリオの寝床や食事を世話してくれるなど、労働の現場やスラム街においての人と人の関係を大切にする民衆の助けあい精神が描かれているところが救いである。ようやく再会したリガヤは工場労働の紹介だとだまされて人身売買された挙げ句、中国人の金持ちの愛人になっていた。その境遇から脱するべく、ふたりは脱出方法を相談することになる。

マニラのトンド地区マニラのトンド地区
 マニラのスラム街のひとつであるトンド地区にやってきた。フィリピンは銃社会で、しかもトンドではスリや強盗が頻発するということで、英語が話せる現地人のガイドについてきてもらった。トタンの屋根や材木で建てた祖末な小屋が、長屋のようにところ狭しと軒を連ねている。一軒一軒の家財道具が家に入りきらないのか、クーラーボックスや生活用水のタンク、干した洗濯物が路面にあふれだしている。それでも人びとの表情は明るく、大人たちがジプニーやバイクタクシーを停めて談笑していたり、かなり汚れたランニングやTシャツを着た子どもたちが裸足で遊んでいた。

 スラム街のスクウォーター(無断居住地域)にわけ入りながら、バロン・バロンと呼ばれる板切れやトタンでつくった掘立小屋のなかに、『マニラ――光る爪』のフーリオやリガヤの面影を求めてさまよい歩いた。ガイドと一緒に迷路のようになった小路をくねくねと歩きまわり、広々としたドブ川に面した道路に抜けた。近くですごい騒音をさせながら、建物の基礎工事をやっていた。炎天下で男たちは黙々と働いていた。

『マニラ―光る爪』のフーリオは、現場の親方からはピンハネを要求され、それを断れば、仕事を失ってしまうような境遇であり、工事現場のピンハネを「タイワン」と呼ぶ。また、リディアを囲っている悪徳の中国系が登場するなど、経済界を牛耳ってきた台湾・中国系への反発が小説には描きこまれている。映画祭で観た作品には、ラスト近くになると主人公が暴力に走る展開が多くて、若いつくり手による安易な物語展開なのかとやや批判的に考えていた。ところが『マニラ――光る爪』を結末まで読み終えてみて、それが、人間関係や家族を大切にするフィリピンの民衆が、ストレスが極まったときに精神錯乱のかたちで怒りを表現する「アモッグ」であることを理解した。日本語に訳せば「キレる」というところか。そのような面は同じ島国に住む自分たちにも思い当たるところがあり、ネガティブな側面でも、ふたつの多島海は結ばれているのかもしれなかった。

(2018.12.27)


目次
第2回 黒潮とボニン・アイランズ(前編)
第3回 黒潮とボニン・アイランズ(後編)
第4回 熊野ワンダーランド
第5回 国道58号線とオキナワ


連載エッセイ 目次



[著者紹介]
金子 遊(かねこ・ゆう)
映像作家、批評家。『映像の境域』(森話社)でサントリー学芸賞〈芸術・文学部門〉。他の著書に『辺境のフォークロア』(河出書房)、『異境の文学』(アーツアンドクラフツ)、『混血列島論』(フィルムアート社)など。編著に『フィルムメーカーズ』『吉本隆明論集』(共にアーツアンドクラフツ)、『半島論』(響文社)ほか多数。アーツアンドクラフツの公式サイトで「マクロネシア紀行」を連載中。

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