マクロネシア紀行     金子 遊

第2回 黒潮とボニン・アイランズ(前編)

  1

 東京湾に初夏の陽光が満ちあふれ、水辺がきらめく光で揺れている午前中、わたしは竹芝桟橋に到着した。それまでに何度も新島、大島、神津島、八丈島といった伊豆七島には旅をしていたので、正直なところ久しぶりに戻ってきたなというほどの実感しかわかなかった。ところが今回は八丈島のはるか彼方、東京から1,000キロも南にある小笠原諸島へ行こうというのだ。およそ24時間の船旅である。飛行機でそれだけの時間、フライトに搭乗したならば地球の反対側まで行けるから、大変な長旅である。

 竹芝桟橋からフェリーに乗るのが、一般人が小笠原諸島へいける唯一の方法であり、定期船は「おがさわら丸」しかない。航空路が確立されていないことが、これらの島々を縁遠い存在とさせているのだ。碇泊しているフェリーの船体は途方なく巨大なものだった。何度かうっかりと不容易に船旅をしてしまい、身をよじって胃の内容物をすべて吐きだすほどの船酔いを経験していたので、水に浮かんだ鉄のかたまりを見て頼もしく思った。

「これくらい大きくて頑丈なら、黒潮の大波も超えられるだろう」

 いわずと知れた太平洋を流れる黒潮は、東シナ海から沖縄や奄美の西を北上して、日本列島の南側を西へと流れていく暖流である。黒潮にのって愛知県の伊良湖岬の浜にまで流れついた寄り物のなかに、若き20代前半のころの柳田國男は南方からたどり着いた椰子の実を見つけた。柳田が友人だった島崎藤村にそのことを話したところ、彼がインスパイアされて「椰子の実」の詩を書いたのは有名なエピソードである。


 19世紀末のこの時代、つまりは明治30年代の人びとにとって、南方の島とは見果てぬ海のむこうにある異郷にほかならなかった。しかし、第一次世界大戦に参戦した日本は、1914年にドイツなどが占領していたパラオ、マリアナ、カロリン、マーシャルなどの各諸島を植民地として手に入れる。そして3年後に南洋航路が開設されると、ミクロネシアは庶民でも実際に旅行することができる異郷になった。椰子の実が流れてくる島々と、実際に政治経済で結ばれたわけである。1930年代に作曲家の大中寅二が「椰子の実」に曲をつけたところ、ラジオ放送をつうじて広く歌われるようになった。

 名も知らぬ遠き島より 流れ寄る椰子の実一つ
 故郷の岸を離れて 汝はそも波に幾月
 旧の木は生いや茂れる 枝はなお影をやなせる
 我もまた渚を枕 孤身の浮寝の旅ぞ
 実をとりて胸にあつれば 新たなり流離の憂
 海の日の沈むを見れば 激り落つ異郷の涙
 思いやる八重の汐々 いずれの日にか故国に帰らん

 島崎藤村の詩を目読するときとはちがって、この歌曲のなかに「晴れた青空、南洋のつよい陽光、青く澄み切った海に面した砂浜に、椰子の木が立っている」という紋切り型のニュアンスを感じてしまうのは、わたしだけだろうか。柳田國男は晩年の『海上の道』において、黒潮にのって南方からやってきたいにしえの日本列島人を想像した。その強力な潮の流れを小笠原諸島への船旅では、ちょうど八丈島の南あたりで越えてなくてならない。そのときには巨大な船体をもつフェリーさえも、大海に浮かぶ木の葉のように頼りなくなり、下品な言葉でいえば「ゲロ船と化す」のだと、小笠原の在住者たちから大変さを聞かされていた。その当時に交際していたTという女性の到着を待って、昼前におがさわら丸の二等和室に乗りこんだ。

  2

 どんな旅というものも、実は旅立つ前からはじまっている。まさに小笠原との不思議な縁がなければ、マリンスポーツのファンでもなく、めずらしい生態系や植生に関心があるわけでもないわたしのような人間が、わざわざ小笠原まで行こうと思いつくこともなかったにちがいない。Tはすらりと背が高く、腰の近くまでストレートの黒髪を伸ばし、目鼻立ちの整った美人だといえた。一度、高校生のころの写真を見せてもらったが、驚くほどに顔立ちの整った少女であった。その頃の彼女に出会えなかったことを本気で悔やんだことも何度かある。だが、彼女が持って生まれたその容貌と、勝ち気な性格はさまざなまアクシデントを彼女のもとに引き寄せることになったようだ。

 Tは長野県の城下町、松本市の出身だった。実家は温泉街の入り口で大きな家屋を構えており、その同じ建物の一階で母親が美容院を経営していた。父親はいるのだが、何の仕事をしているか良くわからない人で、いわゆる「髪結いの亭主」であった。話によれば、家から少しはなれたところにガレージやらアトリエやらを持ち、工作機械を使ってさまざまな発明品をつくっているとのことだった。Tの実家の玄関の壁に、巨大なクエの魚拓が貼ってあった。それを釣りあげた当時は、何らかの記録を達成したものらしい。これが父親のもうひとつの生き甲斐であった。つまり、釣りキチである。

「お父さん、誰からも認められないけど発明家みたいなもんだから、松本にいるときはガレージにこもって、自分で竿やリールや針なんかを改造したり開発したりして。さんざんあちこち旅行して、本格的な海釣りに夢中になったの」

「釣りはひとりでできるから、偏屈な変人の行き着く先なのかね」

「そう、海のない長野県人なのに。それで最後にたどり着いたのが、よりによって小笠原諸島の母島に部屋を借りて、一年の数ヶ月を島に暮すというライフスタイルだったわけ。本当にうちの母親がよく許していると思うよ。生活費はどうしているのかと思うけど、釣った魚を漁協に持っていって現金に換えているわけだから、半分はフリーランスの漁師みたいなものだともいえるのかな」

 父親のことを話すとき、Tはなかば呆れながらも、そのように愛情たっぷりに話すのだった。実をいうと、小笠原と長野県の松本市というのは、歴史的にもまったく無縁というわけではない。信濃国(しなののくに)の松本城城主であった小笠原貞慶の甥に、小笠原貞頼という武将がいた。三河国で徳川家康の家臣になった貞頼は、1593年に家康の命令で南島探険に出発して、現在の小笠原諸島で無人島を3つ発見したとされている。これによって、これらの島々は「小笠原」と呼ばれるようになった。小笠原諸島に欧米系島民や太平洋諸島民が入植したのは、ようやく1830年になってからのことだったから、貞頼の「発見」のほうがずっと早かったことになる。このことが、小笠原の島々が日本の領土であるというひとつの根拠にもなっている。

 いまも昔も、山深い土地で暮らす信州人には、まったく正反対の風土をもつ南国の島へと惹きつけられる性質があったのかもしれない。Tは体のラインが見えるようなぴっちりとしたワンピースを好み、マニキュアやペデキュアをたしなんで、女子度は高いほうであった。だが、唯一の趣味といえるのが、彼女の言葉でいうところの「刺身をつまみながら酒でいっぱいやる」ことであった。彼女の女らしい外見と「サカナで一杯やっか」といい、寿司屋で刺身の三種盛りを頼むときのギャップには、慣れるまでしばらくの時間がかかった。Tには妹がいて、こちらは専門学校を出て美容師の資格をとり、地元で結婚して働いているしっかり者だった。母親の遺伝子を継いだのが妹であるなら、東京で美術大学を卒業して以降、ふらふらとしているTは父親のほうを継承したのだろう。彼女が日本酒を飲みながら「カーッ、うめえ」というとき、わたしは変わり者の父親に連れられた幼いころの彼女が、小料理屋や寿司屋のカウンターで父親の横にちょこんと座り、酒のさかなを喜んで食べている姿が目に浮かぶのであった。

 そのような父娘であったから、生意気ざかりの中学生になったTがあまりの素行の悪さで内申点がふるわず、地元での高校進学が難しくなったときにも、両親は「Tを小笠原で高校に行かせる」という発想を自然に持つことができたのだろう。文字通りの島送りであった。こうして彼女は高校の3年間を父島の小笠原高校に通うことになったのだが、父親は母島に暮していたので、それとも離れてひとりで下宿生活を送った。孤島苦という言葉があるが、この東京から24、5時間かかる島嶼で、彼女は若さのゆえかあまり苦にならずに暮したようである。あるいは、そこが温暖で人が大らかということも要因としてあったのか。それは、小笠原時代からの友だちや知人と大人になってからも親しく交友していることからも伝わってきた。

「小笠原から友だちがくるから会ってみる?」

 わたしが小笠原行きにつよい興味を示していたので、Tはそう誘ってくれた。小笠原村の村民だと安価になる宿泊施設があるらしく、彼らがよくいる浜松町で会うことになった。ひとりはTの高校時代の友人であり、髪をブラウンに染めたかわいらしい女性で、「こう見えても旦那と子どもが二人いるのよ」といって、薬指の結婚指輪を見せてくれた。もうひとりは友だちというか、60代なかばのいかつい顔をした小笠原村の村会議員のおじさんだった。左のまゆ毛の上に大きなイボがあり、顔全体としては『スター・ウォーズ』に出てくるジャバ・ザ・ハットに似ていた。つまり、ガマガエルような容貌の初老の男だった。

 最初はふたりの若い女性をはべらせて、酒と食事をおごる村会議員にいい印象をもてなかった。だが、しゃべっていると、むしろ良い金づるとして女たちに呼びだされても笑っているところに独特の人の良さというか、いい意味でのだらしなさがあって南方の風が漂ってきた。父島は人口2,000人、母島は500人くらいというから、誰もがたがいに顔見知りの島社会であるはずだが、島をはなれた途端に同じ小笠原の出身というだけで強くつながることができる、この感覚は何だろうと思った。

 わたしたちが「おがさわら丸」に乗ったのは6月のことだったが、ちょうどこの村会議員も東京にきていて同じ船で帰ることになった。洋上でどんどん日が傾いていき、水平線に太陽が沈んでいった。その頃から二等和室で車座になって、村会議員とTは寿司をつみまみながら、速いペースでビールを飲みはじめた。夕飯を食べたあとも、青ヶ島の焼酎である「青酎」をぐいぐい飲んでいく。船は夜9時だか10時だかに消灯になったのだが、ちょうどそれが八丈島のあたりを越え、黒潮を横切って揺れがひどくなる時間帯だった。ふたりは「この天候なら、それほど揺れることもない」といっていたが、トイレに行ったときに船が傾いて床が斜めになり、洗面台に腰をしたたかに打ちつけた。村会議員とTのふたりが早いピッチでアルコールを摂取していたのは、黒潮に差しかかるころに泥酔して寝てしまうことと、船の揺れがひどくなってもそれをアルコールで相殺するためだったのだ。それが、この船旅を何度も重ねてきた者たちの知恵というものであろう。フェリーの巨大な船体を物とすることもなく、夜の黒潮はピッチとロールで翻弄した。船底にある二等船室の畳のうえでうつ伏せになり、なんとか船酔いをしないように必死でしがみついていた。

  3

 明くる朝、穴蔵のような船室からデッキへでると、嵐が過ぎ去ったあとのようなさわやかさであった。透き通ったブルーをたたえる、それでいてマリアナ海溝へとつながっていく深い深い底を感じさせる濃い色の海が、ただひたすらに広がっている。陸地から遠くはなれて、人間という小さな存在の心細さとはかなさを思った。顔にあたる湿度を含んだ風は明らかに異質なものであり、年中温暖な熱帯に入ったという実感をおぼえた。

 デッキから海を眺めていると、ときどき水面に白い波が立っている場所がある。そうしたところには海底から突きだした岩礁があった。何もない大海原に島影がぽつりぽつりと現れる。はじめて目に入ったのは、わりと大きな聟島だった。海面に顔をだした岩礁を目印にして、見えない海上の道を船は南下していく。久しぶりに船上から陸地を見ることの興奮がこみあげてきて、気がつくとデッキにひとりふたりと人が出てきて、ただ島がそこにあることがうれしいといった表情で見つめている。媒(なこうど)島が背後に通りすぎ、しばらくして嫁島が見えてきた。じらすような間があって、霞んだ洋上に少しずつ姿を現わしたのが弟島と兄島だった。それらは無人島であるが、ここまでくれば人間の住んでいる父島はあと少しだ。このぽつぽつと島が現れくる感じを、北原白秋は「小笠原群島」という詩に詠んでいる。

 父の島より
 兄島恐や、
 風の出潮は
 なほ恐や。

 弟島かよ、
 皆朱の崖に、
 椰子がちよぼちよぼ、
 棄兒島。

 婿と嫁島、
 また時化ぐもり
 間の媒介島。

 川本三郎が書いた『白秋望景』などの本を読でいると、やはり1912年ごろに、売れっ子の詩人だった北原白秋が近所に住んでいた人妻の俊子と恋仲になるあたりがおもしろい。俊子は別居中だっただけで離婚していなかったので、白秋は夫から姦通罪で訴えられ、拘置所に入れられてしまう。このことが一大スキャンダルになった。1914年、日本にとってまさに南洋への植民が盛んになった矢先に、白秋は妻にした俊子を連れて小笠原諸島の父島に移住する。表向きには、俊子が肺結核になってその病気療養のためであったが、もうひとつ、世間からいろいろと言われることを厭わしく思っての夜逃げという側面があったという者もある。生活がうまくいかずに短い滞在に終わったが、この詩のほかにも白秋は1917年に「黒人の夢」、18年に「小笠原の夏」、19年に「小笠原島夜話」といった小笠原を舞台にした散文を書いている。それらをいま読むと、この時代の欧米系や太平洋諸島民系の住民、そして後から移民した八丈島や本土の人たちが、言語的に文化的に人種的に混淆していた状況を書き残した貴重な日本語の文献となっている。

 父島の烏帽子岩を見ながら、大根崎をぐるりとまわりこむと、二見港と市街地の風景が目に入った。人類の文明が目に入ってうれしいというよりも、長い航海から解放されてホッと胸をなでおろしたというのが正直な感想であった。二見港に着岸し、積み荷が次々とおろされていく。週に一回しかないフェリーの入港日ということで、トラックや車や人びとで港はにぎわっており、何か浮き立つような雰囲気があった。わたしとTは小笠原に一週間程度しか滞在できないので、そのまま港で数時間待って母島に渡る予定だった。陸地を踏むと、まだ船のうえにいるかのように身体の軸が揺れ続けている感覚があった。「ははじま丸」は随分と小ぶりな船で、ほぼ毎日、父島と母島のあいだを往復している。さらに二時間以上乗って母島の沖港に着いた。

 父島の二見港に比べると、母島の沖港は地方の漁村のような雰囲気である。民宿に荷物を置いてから、Tの父親の住処がどうなっているか見にいった。てっきり父親の別宅に泊まめてもらうものだと思っていたので、わたしは少しいぶかった。少し歩いただけでも、ガジュマルの樹木が気根を複雑に絡めていたり、根っこの部分が地上にまでせり上がったようなタコノキが道ばたに生えていたり、独特の植生で目を楽しませてくれる。港の外れにブロックとコンクリートでつくられた長屋があり、その漁師小屋のような一室がTの父親の部屋だった。入り口の横に釣り道具を入れた道具入れがあり、ドアの前はシダで生い茂っていて、建物の屋根や壁には植物のつるが伸びたい放題だった。

「あれ、ここにあったはずなのになあ」

 Tは部屋に入って何かをさがしている。四畳半ほどの広さしかない部屋は、物や道具であふれていた。ここにふたりの人間が横たわることはかなり難しい。それまで、信州の人でありながら母島に別宅をもって釣り三昧を決めこんでいるTの父親に対して、道楽のすぎる男なのだろうと思いこんでいた。ところが、この容易ではない生活光景を目のあたりにして、余程のことがないと住みつくことのできないこの島に隠棲し、世を捨てるようにして日々小舟から釣り糸をたらしている姿に鬼気迫るものすら感じた。 「ねえ、せっかく来たんだから泳ごうよ」

「そうだね、日が沈む前に」

 沖港のむかい側にある海岸まで歩いていった。海岸といっても道路から見えるわけでなく、「まだ、この近道あったんだ」とTは感心しながら、ガードレールをこえてどんどん森のなかに入っていく。人がひとり歩けるほどの小径があって、急斜面のそれを降りていくと巨大な岩と岩にはさまれた白いサンゴ礁の砂浜が広がった。海は見事なコバルトブルーから、浜へ近づくにつれて白い砂の色へとグラーデーションをつくっている。勢い良く服を脱いで黒のビキニ姿になり、Tは海へ飛びこんだ。都会における彼女の姿しか知らなかったので、その野生児のような俊敏な動きが新鮮に映った。この旅は、高校を卒業してから十年余経った彼女にとって初めての小笠原への「帰郷」であった。さざ波が立つ海のなかをスイスイと泳いでいくTのことを眺めながら、島はむかしと変わらない姿でいて彼女のことを黙って待ち受けていたのだとひとり思った。(後編につづく)

(2019.02.19)


目次
第1回 ふたつの多島海
第3回 黒潮とボニン・アイランズ(後編)
第4回 熊野ワンダーランド
第5回 国道58号線とオキナワ


連載エッセイ 目次



[著者紹介]
金子 遊(かねこ・ゆう)
映像作家、批評家。『映像の境域』(森話社)でサントリー学芸賞〈芸術・文学部門〉。他の著書に『辺境のフォークロア』(河出書房)、『異境の文学』(アーツアンドクラフツ)、『混血列島論』(フィルムアート社)など。編著に『フィルムメーカーズ』『吉本隆明論集』(共にアーツアンドクラフツ)、『半島論』(響文社)ほか多数。アーツアンドクラフツの公式サイトで「マクロネシア紀行」を連載中。

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