マクロネシア紀行     金子 遊

第3回 黒潮とボニン・アイランズ(後編)

  1

 6月だというのに、雲ひとつない青空からまっすぐに太陽が照りつけてくる。真夏のような陽光である。船が母島を出てしばらくすると、島影ひとつ見えない大洋の上の人となった。母島に来るときの船はかなり揺れたので、トラベルミンを飲んで波に翻弄される船体に備えた。水色に近いブルーの海は美しいのだが、海面が盛りあがっては沈むという運動をくり返し、油断をすれば海底に引きずりこまれそうな深みをたたえている。ときどき空中で光り輝いて、波間をよぎっていくものがあった。Tが近づいてきて海を指さし、耳もとでささやくようにいった。

「あれ、見える? トビウオが飛んでる」

 午前の船で父島の二見港へもどったが、午後二時になっていた。港の西側が父島で唯一といっていい市街地になっており、この大村に2000人ほど住んでいる。商店やダイビングショップ、村役場や民宿など必要なものはこの地域にある。Tや村会議員、東京で会った同窓生らの行きつけの居酒屋「ブーゲン」もあった。島寿司や島とうがらし、小笠原のラム酒やウミガメ料理など、珍しい地元の料理はこうした居酒屋で食べることになった。民宿で荷物をほどいたTが、日が暮れる前にどうしても行きたい場所があるというので、バスで三日月山の麓まで移動した。大村の碁盤目上になった町を抜けて、市街地の外れにある海上自衛隊の基地の手前から坂をあがっていく。ウェザーステーションの展望台まであと1キロのところでバスから降ろされて、あとは徒歩で山道を登っていった。

 舗装された道から少し入っただけでも、熱帯の見慣れない植生の森がうっそうと広がっている。背の高い椰子の木が空へと伸びており、大きくて硬い緑の葉を広げる棕櫚の木があちこちにある。父島の森に足を踏み入れるだけで、自然の見知らぬ領域に入ったという畏怖の念が高まってくる。宙から錯綜した白い気根を何十本もの触手ように垂らすガジュマルの樹木を見ると、その内側に秘められた生命力に神秘を感じる。また、太い幹をあらわにして枯れた茶色の枝葉を垂らし、四方八方に枝葉を広げるビロウが群生しているのを見て、その存在感に圧倒される。

 そこは山の上にある墓地だった。仏式の墓石のほかに、十字架を立てたキリスト系の墓所があった。少し歩いていくと、ナサニエル・セーボレーの墓もあった。16世紀の末に小笠原貞頼たちが小笠原諸島を発見して以降、しばらくの間、小笠原諸島の存在は世界史にも日本史にも公にはほとんど登場せず、長らく無人の島々になっていた。むろん太平洋諸島民やヨーロッパの航海者が立ち寄ったことはあるかもしないが、そこに居住した人びとがいたという記録は残されていない。

 セーボレーはマサチューセッツ州に生まれたアメリカ人の船員だった。サンドイッチ諸島(現在のハワイ)に滞在しているときに、はるか西の海の彼方にあるといわれるボニン・アイランズの存在が噂になっていた。ボニンは、日本語で無人島(ぶにんじま)と呼ばれたところから変形した呼称であろう。1830年の5月にセーボレーは数人を連れて小笠原諸島に入植した。現在の父島の奥村のあたりであったといわれる。土地を開墾して野菜をつくったり、果物の実を育てたり、豚などの家畜を飼育して、それを小笠原に立ち寄る捕鯨船に売って暮していたというから、この島がはじまって以来の農業者であったといえよう。

 大根山の墓地を歩くだけでも、小笠原諸島の開拓が多様な出自の人たちによって担われていたことがわかる。アメリカ人、イギリス人、ドイツ人などの欧米系の他にも、アフリカのカボ・ヴェルデの島々やマダガスカルからきた人たちもいた。これらの人びとの多くは、ラッコ猟や捕鯨のために欧米の船が太平洋を縦横に行き交うなかで船乗りをしていて、何らかのきっかけで船をおりて島に定住することを選んだ人たちだった。彼らは「浜辺に生活する人」という意味でビーチーコーマーとも呼ばれた。19世紀の航海者たちのなかには、故郷にいられなくなった者、犯罪の過去をもつ者、新天地を求めてきた者などもいて、そこは有象無象が跋扈する世界であった。ナサニエル・セーボレーが入植したときには使用人として太平洋諸島民を連れてきたといわれる。小笠原の初期の開拓者のなかにはハワイ人、ポナペ人、チャモロ人、カロリン人たちも多く含まれていた。島での生活を支えた主役はむしろこうした人たちであったはずだが、欧米系人に比べると名前や出自がはっきり記録されていないケースが多い。

 日が暮れてきたので三日月山の展望台に登っていった。その場所からは、二見港と大村の町が一望のもとに見渡せた。人びとはオペラグラスを手に持ち、海のほうを眺めていた。Tによれば、運がよければクジラの潮吹きが見られるという。ふたりで並んで座り、大根崎の上から西の空と海をながめていた。太陽が傾いて、水平線に近づくにつれて熟した果実のように大きく濃いオレンジ色に染まっていく。見晴るかすばかりの青い大海原も、白くささけ立ったように波を立てていたのが、いまは赤く光り輝いている。黄昏時の太陽が大きさを増していき、最底部が水平線についたと思った瞬間、海に溶けるようにその光りが海面にじわっと広がった。どれくらいの時間が経ったのか。光輪が完全に海の下に沈むまで口を開かなかった。あるいは、ふたりとも口を開くことができなかったという方が正確か。その光景を前にしては、どんな言葉もうつろに響くしかなかったのだから。

   2

 いまこの文章を書いているわたしの目の前には、当時の日記帳が開かれている。父島と母島への旅は11年前のできごとである。あれから自分が11歳も年をとったのだと思うと驚くばかりだ。当時の観光マップを保管していたのを出しみる。地図のあちこちに赤い字で書き込みがしてある。旅行のときに撮影した写真のデータを見つつ、他のところで小笠原についての論考を書いたときに集めた資料のコピーに目を通していく。トラヴェローグ(紀行文)として、それがまるで眼前で起きているできごとのように書き進めていくのだが、実のところ、こうした資料を読み返すことでじんわりと脳裡によみがえってくる記憶を頼りにしているものだ。

 おもしろいのは、どんなに鮮明な写真よりもフィールドノートに書きつけたメモ書きの方から、豊富なイメージが湧出してくることだ。だが、それが本当に自分が見聞したことであるのか、それとも、さまざまなイメージが折り重なって後から再構成されたものであるのか、うまく判別ができない。いや、それは区別されなくて良いものであろう。当時のことを想起すれば、記憶はさまざまなイメージと混濁して醸成されるのであり、また、それが文章として書かれる段階でもいろいろな想像が加味される。トラヴェローグは、その人が実際に訪れた場所をあつかうことによって事実性を担保するが、想起と書く行為のプロセスを経ることでフィクションが入り混じったものとなる。そんな事実と虚構とのあいだを微妙に行き来する特色が強いジャンルではないかと思う。

 もうひとつ、小笠原についての記憶を活き活きとよみがえせてくれたのが、旅のあいだ夢中で撮影していた8ミリフィルムの存在である。ニューヨークでジョナス・メカスという実験映画の巨匠に面会したあと、わたしは20代半ばから30代前半にかけての時期、旅にでては16ミリや8ミリの日記映画を撮る行為をくり返していた。イラク、パレスチナ、旧ユーゴスラビア、奄美大島、徳之島、喜界島、宮古島といった場所で撮影した個人映画は、後から見ると民俗的な映像記録になっている場合もある。小笠原諸島に旅したときも、持っていった写真機やビデオカメラはあまり使わず8ミリフィルムばかりを回し、『小笠原リール』という10分ほどの短編作品になった。どうして撮影にのめり込んだかというと、ボレックスにしてもFUJICAのZ700にしても通常ではファインダーが暗く、目を強く押しつけないと撮れないのだが、小笠原の陽光の下ではそれが明るく像がよく見えて、しかも島々は色彩豊かな花や植物にあふれていたので撮影のしがいがあったのだ。ここから先に書いていく旅の詳細は、自分が撮影した8ミリフィルムを見直し、フィールドノートと照合することで思いだされた記憶に依拠している。

 その日は朝の5時ごろ、おのずと目が覚めた。寝苦しかったのではなく、十分な睡眠をとったあとで体が夜明けの薄明かりに反応したのだ。窓を明けると、遠くから海潮音が聴こえる。港が近いのだが、本州にいるときとちがって、ふしぎと小笠原の海からは磯のにおいが漂ってこない。朝食のあとで、ふたりでスクーターを借りて島巡りに出かけた。最初に立ち寄ったのは二見港からも近い境浦海岸で、Tのお勧めの場所だ。すぐ近くまで熱帯の森がせり出している静かな砂浜である。大きな流木や枯れ木が転がっており、誰かがそれを利用して水上にブランコをつくっていた。少し沖には太平洋戦争中に沈没した船の残骸があり、そのまわりが熱帯魚の集まるスポットになっている。

 Tはシュノーケルとフィン(足ヒレ)をつけて海に入った。彼女が境浦の海を横切り、沈船のまわりを泳いでいる姿が8ミリフィルムには記録されている。わたしは浜辺に打ち寄せられた大木、タイヤ、サンゴ岩などを撮って短いカットでつなぎ、ボイスオーバーの声でこんな風に語っている。

  海の彼方から浜辺にたどり着いた漂流物
  ここにも見知らぬ誰かの記憶が詰まっている
  人の記憶はサンゴのような形なのではないか
  戦時中の沈没船がいまも沖に沈んでいる

 近くの硫黄島で米軍と日本軍が死闘をくり広げたことはよく知られている。太平洋戦争の末期には、父島もまた南から攻め上がってくる米軍を食い止めるための軍事的な要衝だった。父島のあちらこちらに陣地、壕、トーチカ、砲台などの戦跡を見ることができるのはそのせいだ。境浦海岸の沈船は、濱江丸という貨物船であり、当時はマリアナ諸島方面で輸送の任務をしていた。1944年にサイパンから退避するときにアメリカ海軍の空襲で損傷し、硫黄島を経てなんとか父島にたどり着いたが、ふたたび空襲を受けてこの浦で座礁したという。浜辺から見ると、疲れたクジラが浅瀬に寝そべっているような格好である。戦前の日本の帝国主義は、軍事的には南洋への拡張を目ざし、政治経済的には委任統治という名目でミクロネシアの島々を植民地支配した。実際に小笠原までの24時間以上の船旅をしてみて実感されるのは、ここまで来てしまうと、本土よりもずっとサイパンやグアムなどのマリアナ諸島との結びつきの方が強く感じられることだ。その証左として、濱江丸がたどった歴史を解釈し直してみることも可能であろう。

 ふたたび『小笠原リール』の8ミリフィルムを見てみる。スクーターで父島の北半分を一周する道路を走りながら、Tが島の随所で十数年間離れていた島の風景と再会するさまを撮っている。スクーターで走りながらビデオ撮影した部分は、流れるような風景ショットになった。これをスローモーションにしてみたら、残像が尾を引くようなアブストラクトな映像になった。父島の陽光が強く、植物が濃い緑色だったおかげで残像が力強く残るのだ。実験映画的な手法ではあるが、フィルムで撮影した光景に、そのビデオカメラで撮影した流れる景色を多重露光で重ねあわせ、最後に8ミリ映写機が回転する音を入れた。初寝台の展望台で撮ったシーンでは、Tが峠の上を歩いていき、高台から美しいビーチを見下ろす。そこに次のようなボイスオーバーをかぶせている。  

どこかへ移動するたびに、過去の記憶が彼女へと降り注ぐ
あの入江、あの岩、あの岬、あの森に記憶が詰まっていて、彼女が帰ってくるのをずっと待っていたのだ

 扇浦では途中で買ったおにぎりを広げて、簡単な昼食をとった。フィルムの映像に残されたものを見ると、食後に真っ白い砂浜に座っているTが、大きなヤドカリがやってくるのを見ている。そしてヤドカリのクロースアップになってボイスオーバーの声はいう。

  ようやく彼女は何かを見つけたようだ
  父島のオカヤドカリ
  故郷は遠くにありて思うものではない
  ヤドカリの貝殻のように、携えて持ち歩くものだ
  彼女の記憶はきっと、巻き貝のかたちをしているにちがいない

 10年以上の月日が経って8ミリフィルムを見返してみると、たった十分しかない短編なのだが、そこにさまざまな「記憶」のかたちを入れこもうとしていたことがわかる。戦跡や沈船から連想される太平洋戦争の集合的な記憶、高校を卒業してから十数年ぶりに父島へ「帰島」としたTが島を思いだしていくプロセス、そして1年後にフィルムを編集しながら映像が保存する記憶について作者が考えている位相。それら三者をかけ合わせて、記憶に関する複雑なテキスタイルを織ることが、当時の野心だったのだろう。映画の最後には、父島の森をめぐるカメラが移動しながら、ガジュマルの木、ソテツの実、タコノキ、さまざまな花を短いカットでモンタージュし、ひたすら8ミリ映写機が回転する音が鳴りつづける。そして、次のような言葉で映画は締めくくられる。  

フィルムのパーフォレーションに爪が引っかかる音は、時を刻む音ではないのかもしれない
この音は世界を見るときに、わたしのなかで何かが弾ける音だ
世界とわたしのあいだで、記憶のひと粒ひと粒が破裂する音だ

   3

 わたしたちは食後の運動、または昼寝をするためにコペペ海岸を目指した。スクーターから下りて歩いて行くと、内海のようになった美しい白砂の浜が広がった。その場所は、ひとめ見るだけで恋に落ちてしまう独特の魅力をもっていた。南北にきれいな直線のように広がるビーチで、北端と南端はそれぞれこんもりとした森に覆われた岬になっている。それらが浜を抱きかかえるようにして、マリンブルーの海の上に延びている。その浜に寝そべってみると、自分だけが知っている秘密の場所にいるような気分になった。

 植民者が入ってきて住み着いた19世紀の父島では、無人島だった処女地に、実際に彼らはそのような感覚をもって自分たちの住む場所を決めていったのではないか、と想像してみる。小笠原の入り江の地名には、ワシントン海岸、グラネ・ビーチ、久吉海岸、高橋海岸、ジニ・ビーチ、ジョン・ビーチ、ギヘイ岩といったように、人名が付いていることが多い。それらは、その場所に住んでいた人の名前に由来している。欧米系、太平洋諸島民系、日本系の名前が混ざっているのは、そのまま小笠原における植民の歴史を物語っているようだ。ダニエル・ロングが書いた『小笠原ことばしゃべる辞典』によれば、コペペという人はキリバスかポナペあたりの出身だといわれる。母島列島の向島に、妻と9人の子どもと暮らしていたが、後年になって父島の境浦に移り住んだ。コペペ海岸は、彼がカヌーを置いていた場所ということだ。

 1930年代に父島を訪れた民俗学者の瀬川清子は、コペペの娘であるケテという女性から聞きとり調査をおこなっている。「私の小笠原」(*1)という文章のなかで、ケテはコペペが生きていた頃の暮らしは狩猟(漁労)採集に近かったと証言している。欧米系の島民が畑を開墾して家畜を飼い、農業で身を立てていたのに比べて、コペペとその家族は伝統的な太平洋諸島民の生活スタイルを保持していたのだ。祖末な小屋を立てて、自給自足的にタコの実を採ったり、魚や貴重なタンパク源であったウミガメの塩漬けを食べたりしていた。残酷なことのように思えるかもしれないが、現代の小笠原でもアオウミガメの肉を寿司にして食べる習慣がある。島の居酒屋でその刺身を食べてみたが、新鮮な肉だったのか、生臭さもなくおいしかった。だが、地元のスーパーで売っていた「アオウミガメ肉煮込」の缶詰は、独特の臭みと苦味があって食べるのがつらかった。ひと口食べただけで断念した。そのような独特の食習慣を、開拓時代において欧米系や日本系の島民はミクロネシアの人たちから学んだ。そして、南方の島々における風土や伝統とつながることで何とか生き抜いていくことができたのだろう。

 スクーターで大村の市街地にもどってくると、海に面した公園では小笠原諸島返還40周年を記念する「父島返還祭」の準備が整っていた。小笠原諸島は戦後長らくアメリカの占領下にあったが、1968年に日本へ返還された。旅の目的のひとつは、この祭りに立ち会うことにあった。どんな南方の開放的に思える島へ行っても、そこには特有の島社会というものがある。観光客として歓迎される反面で、旅行者は島民生活のナイーブな面からは隔離され、そこに触れることはできない。ところが、祭りの場でTの旧友や知人に会うと、あるいは知人ですらなくても彼女が小笠原高校に通っていたことを知るだけで、島民の誰もが態度を一変させて受け入れてくれた。年配の人たちが、Tを自分の子どものような親しさで会話する姿が印象的だった。

 そのうちにステージの上で、ゆったりとしたパーカッションの演奏がはじまり、腰蓑をつけた保存会の男女による「南洋踊り」がはじまった。そのプログラムのなかで心が震えたのは、1921年生まれの大平京子さん(幼名イーデス・ワシントン)さんが「ウワドロ」の島唄を歌いだしたときだった。大平さんは、セーボレーたちとともに小笠原の最初の開拓民として入ってきたジョージ・ワシントンの子孫である。彼女の少しハスキーにしゃがれながらも透き通って伸びやかな歌声が、父島の満天の星空に響き渡った。

 ウワドロヒー イヒヒ イヒヒー 
 ウワドロヒー イヒヒ イヒヒー 
 ウワドロフィネミネ ウェゲルガ アラレンガ リワツッグラー
 ウェゲルガ ツウグラ ゲッセメ デネ キニトー 
 サブウェンダ リッヒ ウェンダ イヒヒ イヒヒ イヒヒー 
 オホ サブウェンダ リッヒ ウェンダ イヒヒ イヒヒ イヒヒー(*2)

 近年の研究によれば、この「ウワドロ」の歌は、戦前にトラック諸島(現在のチューク諸島)から小笠原に伝承されたものだとされる。使われている言語はカロリン語で、男女のあいだの恋を歌ったものであるらしい。サイパンに住んでいたカロリン人が好んで歌っていたものを、小笠原の島民が聞いて持ち帰ったものだという。わたしはこの返還祭のときに録音した大平京子さんが歌う「ウワドロ」を録音し、『小笠原リール』のサウンドトラックで使った。調べてみたら、どうやらその内容は集団恋愛を歌ったものであり、だいたい次のような意味であるようだ。

 つかまえた、イヒヒ イヒヒー(かけ声)
 つかまえた、イヒヒ イヒヒー
 若い娘さんをつかまえた みんながお前を待っているよ
 あれ、いやだ 旦那が増えるのは好まない
 娘さん、どうして僕をいやがるの
 私よりもいい人が他にあるのかい イヒヒ イヒヒー

 父島と母島における滞在も1週間が経ち、次の出港日がやってきた。わたしが「おがさわら丸」の船室に荷物をおいて休んでいると、間もなく船が出るというアナウンスが入った。「こんなところで何をしてるの」とTにいわれて、手を引かれるがままに二階のデッキにでた。すると、船客のほとんど全員がそこにいて、食い入るように波止場のほうを眺めている。夫を見送りにきた妻、船上の人となった親や祖父母にむかって、一生懸命に手を振っている子どもたち。汽笛が鳴ると、碇をあげてフェリーは透明度の高いブルーの海を泡立てながら、白い尾を引いて二見港から出発した。ふと、フェリーを追いかけて防波堤を熱心に走っている、ひとりの中高年の女性の姿に気づいた。島の民宿のおかみさんだろうか。防波堤の突端まできて、それ以上行けないことを悟ると、彼女が勢いよく海に飛びこんだのでびっくりした。別れを惜しむ感情が何とダイレクトに表出された見送り方なのか。

 高校の運動部員だろうか。海上を手漕ぎのカヌーでフェリーを追いかけてくる男子がふたりいた。カヌーを停めると、彼らは空中で前方に1回転して海にダイブし、顔をだしてからもずっと手を振っていた。それだけでは終わらない。漁船の上から大漁旗を振っている十数人の人たちがいる。家族連れの島民が釣り船で追いかけてきて、子どもから親までがひとりずつ手を振りながら宙を舞っていった。この出港日のセレモニーは延々と30分近くつづいた。フェリーを追い抜きそうな速さで追ってきたモーターボートがあったが、港の外まできたところで停止し、オレンジ色の救命具をつけた5、6人の人たちが一斉に海に飛びこんだ。これで最後だった。本土やほかの諸島からも遠くはなれた島にあって、週1回の船が入ってきて出ていくことが、島民にとってどれだけ大きい意味があるのかを思い知った。父島の島影はどんどん小さくなり、蜃気楼のなかでおぼろになって、やがて水平線の上に消えた。そのとき、自分のなかでひとつの世界が消滅したと思えるほど、胸を締めつけるせつない気持ちがこみ上げたきた。


*1『村の女たち』瀬川清子著、未來社、1970年
*2『小笠原ハンドブック』ダニエル・ロング著、南方新社、2004年

(2019.03.15)


目次
第1回 ふたつの多島海
第2回 黒潮とボニン・アイランズ(前編)
第4回 熊野ワンダーランド
第5回 国道58号線とオキナワ


連載エッセイ 目次



[著者紹介]
金子 遊(かねこ・ゆう)
映像作家、批評家。『映像の境域』(森話社)でサントリー学芸賞〈芸術・文学部門〉。他の著書に『辺境のフォークロア』(河出書房)、『異境の文学』(アーツアンドクラフツ)、『混血列島論』(フィルムアート社)など。編著に『フィルムメーカーズ』『吉本隆明論集』(共にアーツアンドクラフツ)、『半島論』(響文社)ほか多数。アーツアンドクラフツの公式サイトで「マクロネシア紀行」を連載中。

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