マクロネシア紀行     金子 遊

第4回 熊野ワンダーランド

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 大阪から紀伊半島を列車で南下していると、ちょうど紀ノ川と和歌山市を越えてたあたりから、車窓の風景が変わってくる。乗客が少なくなるだけでなく、地形がリアス式海岸になり、小さな半島や岬がつらなる海岸線を列車が蛇行して走るようになるからだ。中上健次と交友のあった詩人の吉増剛造は、熊野を訪問することを告げると「おめえ、どっちから来る」といつも訊かれたそうだ。「昔、熊野へ至る道に、伊勢路、大辺路、中辺路とあったように、今も新宮に行く道は三本ある。名古屋から松阪を通り尾鷲を抜けて来る海外沿いの道と、大阪から田辺、白浜を抜けてくる道、後一つは、奈良から十津川を通り本宮を越えてくる道である。新宮は三つの道路が集結した土地である」と中上は書いている。(*1)どのルートを通ってくるかによって、熊野は異なった風貌を見せるという。確かにその三つでは、旅の仕方もそのときの心持ちのありようも変わってくることだろう。そのときのわたしは大阪からのルートをとおった。

 窓外をながめていると、入り組んだ地形から時おり入り江が顔をのぞかせ、すぐに山深い岬によって隠される。ふと海が見えたかと思うと、急激な断崖絶壁が目に飛びこみ、海上に岩礁が頭をのぞかせる。その風景の移り変わりにすっかり魅せられた。わたしの師匠である映画作家の原將人は、鉄道とシネマがともに19世紀の発明であることを強調している。両者はともに人間の知覚に対して、後もどりできないほど大きなインパクトを与えた。列車の座席に腰かけ、日常とは少しかけ離れた心地を味わいながら、四角い車窓のなかに、次々と移り変わっていく風景をながめること。それは映画館の暗闇のなかにひたって、四角いスクリーンのなかに訪れたことがない土地の光景を眺める、シネマにおける体験とアナロジーで考えられるという。シネマトグラフを発明したリュミエール兄弟が撮った黎明期の映画が、『ラ・シオタ駅への列車の到着』(1895)というタイトルの、蒸気機関車が駅に到着するさまを撮った作品だったことは偶然ではなかったのだ。

 熊野の沿岸をぐるりと走る紀勢本線は、非常に複雑な地形になっている湾岸線を走っている。小説家の中上健次は「熊野が韓国の古い呼び方コマにつながる」ことに関心を抱いていた。あるとき、アメリカで詩人とその奥さん(吉増剛造とマリリアのこと)が詩の朗読パフォーマンスをおこなった。詩人が「タマガワ、コマガワ、タマガワ」と日本語でくり返すのを奥さんが英語で翻訳するのだが、その声をテープで聴いて中上は「タマ、クマ、コマ」が判別つかないことに驚く(*2)。中上の場合、彼が生まれ育った新宮の春日町の「路地」のすぐ横に朝鮮人部落があり、また自分の祖父に韓国系の血筋が流れているのではないか、と感じていたことが大きかったようだ。

 ところで、わたしの出身地である神奈川県には、大磯町に高麗山と高来神社があり、北上していくと東京都の狛江という地名があって、さらに北へ行くと、秩父の山のふもとに高麗川という地名と高麗(こま)神社があって、中上健次もこの神社を訪れたことがある。子どもの頃、何となく渡来系の人たちが相模湾の浜辺にたどり着いて、そこから船をおりて相模川に沿ってまっすぐ北上していき、秩父まで移動していったのではないかと妄想していた。日本が朝鮮半島を植民地にしていた時代に、労働力として使役するために強制的に連れてこられた在日コリアンである。だが、それとはまったく異なる古代に、鉄器や銅の文明をたずさえて北九州から瀬戸内海を移動し、熊野の深い森に入っていった渡来人がいたのかどうか。クマノとコマという音に共通の響きを見つける吉増剛造や中上健次の耳には、そのような射程において言葉の底に流れる音の響きが聴こえていた。

 いずれにせよ、熊野の湾岸に船をつけることも、そして平地から山へわけ入っていくことも、昔日の人であったらさぞかし移動が大変であったろう。そういえば、このあたりから「紀伊路」と呼ばれる熊野古道もはじまる。青石鼻、下崎ノ鼻、宮崎ノ鼻といった「崎」や「岬」に相当する海ぎわの地形を「鼻」と呼ぶのが、関東で生まれ育った自分からすると珍しく感じられた。「鼻」はむろん顔のなかで出っ張っている部分であるから、海に突きだした地形をそのように呼んだのだ。だが、「はな」には最初とか端という意味もある。紀伊半島の根もとに近いあたりの西岸は、瀬戸内の文化圏域にあった。「鼻」の地名が西日本や瀬戸内に多いのは、これが半島や岬や崎よりも古い言葉であり、弥生時代に命名されたからではないかと考える向きもある。

 紀伊半島の紀州を旅しながら、半島の意味を考えた。朝鮮、アジア、スペイン、何やら共通するものがある。アフリカ、ラテンアメリカしかり。それを半島的状況と言ってみる。大陸の下股、陸地や平地の恥部のようにある。半島を恥部、いや征服する事の出来ぬ自然、性のメタファとしてとらえてみた。いや、紀伊半島を旅しながら、半島が性のメタファではなく性という現実、事実である、と思った。
(『紀州 木の国・根の国物語』中上健次著 *3)

 どうして紀伊半島を「陸地や平地の恥部」というところまで、それが裏暗い性をもつリアリティだと考えるところまでいくのか。平地に築かれてきた都から深山によって隔たれて、海上交通の盛んな内海からも遠くはなれて、半島の先っぽに人びとがへばりつくように棲む浦々のことを、人間の身体でいえば恥部のようだといっているのか。いや、もっと個人的な経験もあるのだろう。中上健次は青年期に東京へ出て、その後もアメリカや朝鮮に滞在したことがある。そんな彼にとって、血族や親族が暮しつづけている紀伊半島は、自分のなかでは性によってつながれた共同体のある場所だといっているのだ。

 もう少し客観的にとらえることもできよう。半島や岬という地形には、「三方を海に囲まれた土地」という定義がある。現代であれば、その海に突きだした地形が大きいものであれば「半島」、小さいものであれば「岬」や「崎」や「鼻」を使う。それでは、どれくらいの大きさまでが半島で、どれくらいからが岬になるのか、区別するための明確な基準はない。同じように島も「四方を海に囲まれた土地」とすることができるが、どこまでが島でどこからが大陸なのか。オーストラリアは大きな島なのか、それとも大陸であるのか。それをいうことは難しい。極言すれば、ユーラシア大陸を海に浮かんだ大きな島だということもできる。そうであれば、世界中の誰もが島か半島に住んでいることにもなる。

   2

 そんな由なし事を列車のなかで考えながら、およそ10年前にそうやって同じように紀伊半島を南へむかったときのことを思いだしていた。そのときは自分の撮った長編映画が、映画祭で上映されるというので田辺市に向かっていた。しかし、長い月日が経ってしまうと、映画祭で起きたできごとや出会った人たちのことよりも、奇縁によってその地で再会することのできた、ひとりの青年のことが思いだされてくる。

 23歳でまだ大学生だった頃のわたしは、映画詩人ジョナス・メカスの真似をして、ボレックスという16ミリフィルムのカメラを購入し、旅を重ねては短い日記映画を撮ることをくり返していた。あるとき吉増剛造さんが「石狩シーツ」という長編詩の舞台になった石狩川の河口を真冬の時期に訪れるというので、同行させてもらった。河口まで行くと、土手も河川敷もちがいがわからないほど深く雪が降り積もっている。流氷ではないが、滞留した河川の表面が結氷していて、大きな氷の板がゆっくりと流れているのが、何とも珍しい光景に思えた。そこで当時使っていたDATのデジタルデンスケを取りだし、大きな氷の板が流れて他の板とぶつかり、互いに削りあって流れていく音を録った。生まれてからこの方、聴いたことがない音だったのだ。

 バックパッカーのようにあてどない旅をするのもいいが、旅する先に誰か訪ねる人がいるのも良いものだ。このときは吉増剛造さんと一緒に、石狩川の河口にアトリエを持つ版画家の大島龍さんを訪ねた。世界を旅して、オオカミをモティーフにした木版画を制作している作家である。アトリエで楽しいひと時を過ごしたときに、当時は中学生か高校生だった息子さんのK君に会った。そのK君がすでに結婚してお子さんもおり、田辺市の山間部で畑を耕しながら家具デザイナーをしていると聞いて、会いに行くことにしたのだ。父上も若いころは山奥で自給自足生活をしていたというから、同じように都会における資本主義と競争原理に浸されていない、オルタナティブな生き方を求めて、山に入る道を選んだのだろう。ちょうどそのような生活と自己探求を実践した大先輩として、田辺という土地には博物学者で民俗学者の南方熊楠という巨人がいる。熊楠は、熊野の森や離れ小島のようになった神島(かしま)で採取したミクロな粘菌の姿を顕微鏡でのぞき込み、曼陀羅に喩えられる世界の複雑で多様なあり方を観察したのである。

 田辺に滞在したときのことだ。南方熊楠が粘菌を採集をした神島は、照葉樹林におおわれた無人島であるとされるが、珍しい南方系の植生が見られるために天然記念物に指定されて、ふだんは一般人が立ち入ることはできない。せめてその島の姿を遠くからでも拝もうと、磯間の浜辺をぶらりと歩いた。すると偶然に、磯間浦安神社に行きあたった。この社は古代信仰の呪術的要素を残しているらしい。日本の近代化において国家的なものとされた神道や、現代の神社組織には何の関心も抱けないし、ご利益や呪力を期待することはないが、それ以前の多神教的な神々や言い伝えには関心がある。このような聖地が残っていると熊野はアニミズムの土地だなと思うし、政治的な権力者たちが仏教や国家神道を奨励した時代があったとしても、それは民衆にとって表面的なものにとどまってきたのではないかと思えてくる。そうでなければ、浦安神社のような素朴な海神信仰が本州に残っていることはできない。

 浦安神社がある場所は、まわりよりも一段高い丘陵になっていて、かつては海を見渡せるところだったようだ。その聖域に船主や船頭が集まって「汐かけ神事」をおこなう。説明書きによれば、祭壇に祀られている恵美須像にお神酒、赤飯、イガミ(ブダイ)四匹、タイ二匹からなる神饌をそなえる。祝詞とお祓いのあと、浜降りをして恵美須像を海につける「汐かけ」をする。「参列者が波打ち際で、恵美須像に豊漁を約束するように声をかけながら、御神酒をかけ、赤飯や採り魚を箸や手でねりつける。その後、神像は、再び汐で洗われ」る。豊漁を願う人たちの心根が感得され、ダイレクトなかたちが残った呪術である。恵美須神は古来のかたちでは漂着神や寄り神であり、クジラの死体が浜に流れ着くと、その下に多くの魚を引き連れてくるので豊穣の神とされてきた。鳥居や神社といったものは後年にできた形式にすぎず、浜降りと呪術的な汐かけの行事こそが、もっとも古くて本質的な行為であったのではないかと想像される。
熊野灘熊野灘

 ふたたび鉄道の旅がつづく。南紀白浜をすぎて、紀伊本線で熊野灘にそって串本、古座、太地といった町をたどっていく。熊野の巨大な森から成る山々に抱きかかえられて、猫のひたいほどせまい海と山のあいだの空間に、人間たちは何とか集落をつくってきたにすぎない。海辺に突きだした巨大な奇岩があちこちにある。そのむこうには、ひたすら平坦な太平洋の海が広がるばかり。そうやって何時間も鈍行に揺られていると、自分が離島にいるのではないかと錯覚してくる。海のむこうには何千キロに渡って、人類の文明がまったく存在していないのだと考えると、僻地に取り残されたような心細さをおぼえる。その感情のありようが離島にいるときのそれに似ている。一方で、背後にある熊野の山々から注ぎこむ川の急流をさかのぼっていけば、あるいは、山奥へとつづく古道をたどっていけば、人びとが暮らす村落や寺社があるのだと想像され、そこはかとない心強さも感じる。わたしは、このような途方なく大きい半島の沿岸部を移動したことがなく、スケールと距離感を見失い、自分のいる場所を地勢において感覚的に位置づけることがむずかしくなっていた。そのようにパースペクティブを失ったような状態で、熊野川の河口にある新宮の町に到着した。

 新宮の駅前にある徐福寿司で、地元の郷土料理であるめはり寿司とサンマの姿寿司を食した。めはり寿司は、高菜の浅漬けでくるんだ巨大なおにぎりで、それを頬ばるためには目を張るほど口を大きく開けなくていけないため、そのような名前がついたとされる。サンマの姿寿司は、昔の寿司のかたちはこうであったのではないか、と思わせる始原的な食べ物であった。サンマを開いて頭も尾もとらずに酢と柑橘類でしめたもので、甘味のある酢飯を巻いたいわゆる「棒寿司」である。生の魚なので、なかなか皮が噛み切れずに苦労したが、昔日の人たちが保存食として重宝したであろう料理を堪能することができた。寿司店の店名の由来は、日本列島もほかの各地にも見られるが、新宮にも伝わる「徐福伝説」がもとになっている。およそ2200年前に秦の始皇帝のため、はるか東の海に住む蓬莱山などの三神山をおとずれて、仙人から不老不死の薬を受けとるために船旅にでて、もどってこなかった徐福という人物をめぐる伝説である。そんな口碑が列島の各地と同様に、太平洋を流れる黒潮へと突きだした、この紀伊半島の先端の町にも残っている。

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新宮駅前の新開地新宮駅前の新開地

腹ごしらえを終えて、さっそく町歩きに出かける。新宮市立図書館がつくった「中上健次文学地図」を頼りに、紀勢本線「新宮」駅の西側に足を踏みこんだ。すると、駅前の自転車置き場からすぐのところに、中上文学でいうところの「新地」がすぐに見つかった。かつては小さな飲み屋や店がゴミゴミと、長屋のように連なっていた横町であったらしい。いまはほとんどがふつうの住宅にリフォームされているが、新宿ゴールデン街のような細い横町の道と、細々とした二階屋が軒を連ねているさまは、そのまま残っている。その小道をゆっくり歩いていると、『枯木灘』『奇蹟』『地の果て、至上の時』といった長編小説のなかに登場する「弥生」や「モン」といった店、「蓬莱の玉突き屋」がほうふつとされてくる。

 同じ新地の角のところに「一寸亭」の看板が最近まであったというのだが、わたしが訪れた時点ではなくなっていた。『奇蹟』には、「一寸亭は路地から朝鮮人の飴屋の集落の脇を抜けてすぐにあった」とある。また「新地の一等奥まで行き、枕木の柵に小便した。先ほど停まっていた汽車はなかった。駅のホームが見えた。空は深い群青色だった」と『枯木灘』にある。何のことはない、小さな町の駅前にある飲み屋横町から、駅のホームをながめた光景であるのだが、中上健次の文学のなかでは神話的なトポスにまで高められている。小説に登場する現実の「新地」は駅からすぐ近くの場所にあり、拍子抜けするほどせまい土地という印象であった。それをもっと広い土地で、さまざまな人物が跋扈する神話的世界のように思いこんでいたのは、ひとえに小説家の筆によってその場とかつていた人々が虚構化させられていたからだと悟った。それはまるで、幼少の頃にすごした土地を大人になってから訪ねて、こんなに狭くて小さな場所だったかと驚くときの感覚に似ている。

 新宮駅のすぐ北側に踏み切りがあり、そこからゆるやかな曲線を描くように車の往来がはげしい道路がとおっている。駅前の「新地」から道を渡ると、そこがかつて「路地」があった春日町である。現在は、背の低い二階建ての市営住宅が建ちならぶばかりだ。春日教育集会所(人権教育センター)がなければ、同和地区であったことなど、地元の人以外には誰が知ろうという光景である。まさにその土地が持っている歴史的な記憶を消去し、どこにでもありそうな風景に変えてしまうことが、再開発の狙いだったことはまちがいない。会館の一階に中上健次の写真、年譜、書籍をかざったコーナーがなかったら、そこが『枯木灘』や『千年の愉楽』といった代表作の舞台になり、中上が幼少期にすごした「路地」であることも判然としないだろう。いや、ただひとつ中上文学を地図で記した看板がひとつだけ道ばたに立っており、その場所がまぎれもなく「路地」であったことを来訪者に告げている。

路地の跡地の市営住宅路地の跡地の市営住宅

 市営住宅から「秋幸の生まれた家」があったとされる辺りを線路のほうへ歩き、坂を登っていくと、少しばかりだけ戦後にごちゃごちゃと小さい家が建ちならんでいたときの風情が残っている。「フサの家一帯は戦災で焼けた後に建てたバラック同然の家ばかりだった。(…)フサの家と隣りの家の境目に枝を張った柿の木があった」と『枯木灘』にはある。自然の山を削り、整地して、いまの市営住宅を建ててしまう前の春日町には、鼻と鼻を突きあわせて隣家同士が暮らすような状況がたしかにあったのだ。『千年の愉楽』の痕跡を求めて、春日町の反対側を歩いていく。「礼如さんとオリュウノオバの住む家は山の中ほどで坂の道をのぼったところだった。体も小さく何もかも小さい礼如さんがその坂を一等近くの共同井戸から桶に水を汲んで上る事は不可能だ、オリュウノオバとて無理だ、というのを充分知っていた」とある。オリュウノオバの家の跡地は、中央通りという車道の下になっていた。だが、山の中腹だったという辺りから、確かに市民病院や「オークワ」のスーパーマーケットがある丘の上にむかって、なだらかに登る坂道になっている。春日町はかつての姿を変えていても、地形をそんなに簡単に変えられるものではないのだ。

 或る時、私の実の男親が、あれほど仕事のことで話があると言っているのにやって来ないと激怒している、あいつは俺から逃げるのかと言っている、と噂を耳にした。仕事の話とは、路地の山を削り取り道路をつけるという工事のことで、夏になっても秋になっても工事をもくろんでいる市とスーパーマーケットが路地に土地や建物をもっている当事者に誠意を見せぬ為に長びき、さらに私の二番目の姉婿と義父、義父の姪の婿の三人が請負う契約が露呈し、路地に住む実の男親が急に路地の山を取る工事を地元の俺に請負わせないとは何事だと言い出したのだった。(「怪霊星」*4)

 中上健次の私小説的な面がつよい『熊野集』におさめられた短編小説群を読んでいると、龍造のモデルになった実の父親が卑小な男だったり、同和地区のオバアに取材する中上の姿が書きこまれていたりして、作家本人を生々しく感じることができる。それに比べると、小説として書かれた『岬』『枯木灘』『地の果て、至上の時』といった秋幸をめぐるサーガは、当たり前のことだが、文学的に練りあげられ、謳いあげられた虚構の物語であった。「路地」のあった春日町を歩いてみて興味を引いたのは、上の『熊野集』からの引用にもあるように、山を削りとる工事に実の男親が関与しようとし、それにつづく再開発によって路地が消滅したという歴史的な事実である。

 ここで1本のフィルムについて参照することにしよう。1978年から同和地区の改良工事がはじまったことで、中上健次は消えていく路地の姿を何とか映像に残そうと、人を雇って16ミリフィルムで撮影していった。それをいま見ると、傾斜地にへばりつくように所狭しと軒を連ねるトタン屋根の民家や干された洗濯物などが、舌で舐めずりまわるように撮られている。地形的には、臥龍山や日和山といった新宮の町中にかつては急勾配の山があり、そこに追い詰められるようにして、同和地区だった春日町の民家が建っていたことがわかる。中上の書いた言葉を信じるなら、そのとなりには植民地時代に朝鮮半島から連れてこられた在日コリアンの人たちが暮らす「朝鮮人部落」もあったことになる。

 路地の三叉路の駄菓子屋の隣がハルヒコノアニの家で、或る時、その脇から山へつづく坂道を若衆と二人で撮っていて、ハルヒコノアニの物置きの前に大きな火鉢に張った水の中に鮒が死んで浮いているのを見て、アントニオーニの画面に出て来る大きな丸い容器に張った水、それに浮いた木端のような鮒と、抽象的に、意味するものと意味されるものを分解するようにカメラに収まらないかとテストを繰り返し……(「海神」*5)

 上記のような描写を小説で読んでいたので、路地の三叉路だった跡地を探したのだが、どうしても見つからなかった。それにしても、中上健次が「若衆」と撮ったフィルムは、ミケランジェロ・アントニオーニのような凝ったアート映画を志向していたのだなと意外に思い、少し感心もしてしまう。フィルムを見ていると、そこを「路地」と呼んだのが字義どおりの意味であったことが良くわかる。映像には、人がひとりかふたりくらいしか一度に通れないような狭い小道が映っており、その先は行き止まりになった、まさしく路地がいくつも映っている。その風景から、いまにも中上文学の登場人物たちが飛びだしてきそうなのだ。東の井戸なのか西の井戸なのか判然としないが、まだ現役で使われていそうな蓋をした井戸もフィルムにおさめられている。映像は風景ばかりで、あまり人物は出てこないのだが、例外的に幼子を背中に抱きかかえ、白いエプロンをつけたチリチリ頭のおばさんが出てくる。音声はないが、その女性と立ち話をして、何やら激しく口を動かしながらカメラの方に歩いてくる初老のお婆さんは、いかにも春日町に住んでいた肝っ玉母ちゃんの原型のような人物に思える。これがオリュウノオバのような、路地の原母とされる女性の姿なのかもしれない。

 16ミリフィルムに定着された70年代後半の「路地」のイメージを頭に浮かべながら、当時のくわしい資料を求めて、新宮市立図書館の三階にある「中上健次資料収集室」を訪ねた。中上健次が書いた書籍、雑誌、生原稿、写真、関連文献を収集している場所である。そこで紹介してもらった「人権問題研究」1号という雑誌に、わたしの持った疑問に答えてくれそうな論文が載っていた。若松司と水内俊雄による論考「和歌山県新宮市における同和地区の変容と中上健次」である(*5)。いくつかの年代ごとの地図、むかしの航空写真、表やチャートなどを豊富に使って、中上健次に大きな動揺をもたらした春日地区の再開発問題を、あくまで現実社会における位相から検証している労作である。  それによれば、新宮の市街地を東西に二分していた臥龍山の切り取りを決めたのは、1959年に将来的な総合都市計画の基本案をつくった木村市長だった。それと同時に、50年代後半には全国的に同和対策が進められ、60年にはその対策の対象として和歌山県の田辺市と新宮市が選ばれた。しかし、中上健次の紀州サーガにとって大きな意味を持ち、彼が『熊野集』などで「路地の消滅」として取りあげたのは、1978年にはじまった「春日小集落事業」と「日和山開発」のほうであった。これは同和改善事業として、春日集落のある日和山を切り崩して住宅地をつくり、低所得者の老朽化した家屋を建てかえたり他の地区に移転したりし、さらに31戸の市営住宅を建設して、以前からの居住者をそこに住まわせようという計画であった。山の上に市役所とスーパーマーケットを建てて、駅とのあいだにある山を切り崩し、被差別部落を取り除いたあと、道路や緑地公園をつくろうという事業で、当初は12億円の総工費と見積もられていたものが、後年には62億円にまでふくれあがった。これに明確に反対したのが中上健次だった。

 中上文学のなかに、路地には「天皇の一族を弓を引いた者」がいるという文章がよく出てくる。明治末期に明治天皇の暗殺を計画した「大逆事件」として、幸徳秋水ら自由主義者や無政府主義者が逮捕されて24人が処刑されたが、なかには6名の新宮出身者が入っていた。そのひとり、海外で学んだ外科医の大石誠之助の出身地が春日町にあり、いまも顕彰碑が建っている。わたしも訪れたが、いまでは春日町公園に移されていて、冤罪で名誉回復された彼のために「志を継ぐ」という碑がある。その大石誠之助の甥の玉置という人物が、中上健次によれば、同和地区における多くの土地の所有権を有していた地主だったのだ。「誰の眼にも、地主の玉置が借金を払うのにスーパーマーケットに権利を売り、そこを削り取って海と山と川に囲まれた狭い土地の人の流れをスーパーマーケットに集中させる道を市の金でつくるという事になった」のだと、中上は「路地」に住む人たちの考えを代弁するかのように書いている(*7)。

 玉置という人物は路地がある春日町の土地に関心をもっていて、部落の人たちに表面上は親切にしていたので、路地に住む者たちは借金をするときに玉置から借りることが多く、しかも一部の者は借金のかたに土地を担保にするという約束をさせられていた。ちなみに、ここで問題になっているのは、現在でいう「オークワ新宮仲之町店」のことであり、いまはショッピングセンターとして1階にスーパーマーケット、2階と3階には衣料品売り場や各種テナントが入っている。地元の人に話を聞くと、近くにイオン新宮店ができてからというもの、オークワは閑古鳥が鳴いて、縮小につぐ縮小を迫られているそうだ。中上健次にとって問題だったのは、彼のアイデンティティの在り処であり、彼の文学を生みだしてきた源泉でもあった路地が消滅しようというときに、土建業を営んでいる彼の男親や親戚・姻戚などの身内が、その工事によって甘い汁をすすろうとしていたことだった。

 1978年の事業のとき、立ち退き交渉がはじまったが、新宮市やスーパーマーケットとのあいだで交渉に立ったのは、中上の二番目の姉の婿だった。彼は路地の自治会長をつとめ、人夫を20人ほど使う請負業をしていた。ところが、姉夫婦はすでに駅ふたつ向こうの土地に、すでに家を新築していた。この姉婿は「親の代に玉置にめくら判を押さずにいてまだ土地が自分の物である者ら」を説得する役目を担っていたのだが、後からわかったのは、この姉婿はスーパーマーケットが出資して工事を請け負う会社の理事のひとりになっていたことだ。さらに山を崩して道路をつくる工事は、中上の「義父と義父の姪の夫が、姉婿と三人で十億とも十四億とも人の言う工事を山分けする事になっていると、路地の者に知れわたってしまっていた」のである。

 いまの沖縄本島の辺野古を歩いていても思うことだが、国や県や市がおこなう公的事業には、たいてい反対する住民のなかに利益関係者が出てきて分裂し、建設業者や下請け会社を巻きこみながら、強引に押し進められていく。そして結局は、多くの者が反対するなかで押し切られ、山は切り崩され、古くからの住民は住み慣れた家屋や土地を追われ、美しい砂浜やサンゴ礁の海は埋め立てられ、景観は一変することになる。そこに政治や環境問題も関係しているだろうが、最後は金銭の問題で決定されていく。そして、やがて人びとはその場所がどのような姿であったかのを忘却し、思いだすことすら難しくなることだろう。そのときに抵抗としてできる唯一の手段は、中上健次がおこなったように短編小説の連作を書くことや、若者たちと組んでフィルムに記録することくらいしかないのかもしれない。


*1「新宮」『紀州 木の国・根の国物語』中上健次著、角川文庫、17頁
*2「花郎」『熊野集』所収、中上健次著、講談社文芸文庫、75頁
*3「序章」『紀州』7頁
*4「 怪霊星」『紀州』141頁
*5「海神」『熊野集』所収、103頁
*6「和歌山県新宮市における同和地区の変容と中上健次」若松司、水内俊雄著、『人権問題研究』1号、大阪市立大学人権問題研究センター編、2001年、大阪市立大学人権問題研究会
*7「海神」『熊野集』107頁

(2019.05.09)


目次
第1回 ふたつの多島海
第2回 黒潮とボニン・アイランズ(前編)
第3回 黒潮とボニン・アイランズ(後編)
第5回 国道58号線とオキナワ


連載エッセイ 目次



[著者紹介]
金子 遊(かねこ・ゆう)
映像作家、批評家。『映像の境域』(森話社)でサントリー学芸賞〈芸術・文学部門〉。他の著書に『辺境のフォークロア』(河出書房)、『異境の文学』(アーツアンドクラフツ)、『混血列島論』(フィルムアート社)など。編著に『フィルムメーカーズ』『吉本隆明論集』(共にアーツアンドクラフツ)、『半島論』(響文社)ほか多数。アーツアンドクラフツの公式サイトで「マクロネシア紀行」を連載中。

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