マクロネシア紀行     金子 遊

第5回 国道58号線とオキナワ

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 3月だというのに那覇空港をおりると、力強い陽光が差していた。むっとするような湿度の高さもある。西洋人の観光客たちが、少し気が早いとは思うのだが、もう半袖Tシャツに短パンの姿で歩きまわっている。わたしが学生時代に沖縄や奄美群島に通っていた頃とは、いろいろなものが変わってしまった。ひとつは、欧米系のみならず、中国、台湾、韓国、東南アジアから来たと思われる観光客の多さだ。国際通りを歩いていても、ほとんど東京の銀座にいるような気分になる。もうひとつは、ゆいレールが完成して那覇空港から首里城まで結ばれたこと。全線開通から10数年が経っているが、那覇に着くと、つい空港の外にでて、手をあげて、タクシーを止めそうになってしまう。

 ビルの3階か4階くらいの高さで移動するモノレールの車窓から、那覇の街中の風景を眺めていると、二ヵ月ほど前に亡くなった元「噂の眞相」の岡留安則のことを思いだした。訴訟続きの生活に嫌気がさしたのか、それとも携帯電話とインターネットの時代がきて紙媒体が凋落していくことを見越していたのか、2004年に編集部を畳んで、那覇で酒場のオーナーの地位におさまっていた。ちょうど、ゆいレールが開業をした頃ではなかったか。フェイスブックの設立が2004年、ツイッターのそれが2006年のことだから、誰もが自分からプライベートを発信する時代がきて、「噂の眞相」誌の余白に載せられた「一行情報」を毎月楽しみにめくる時代は終わりを告げたのだ。

 20代前半のころ、新宿ゴールデン街をふらついていると、70年代風のサングラスをした岡留安則に出くわして、よく酒をおごってもらった。どんな暗い酒場にいてもサングラスを外さなかった。酒代の代償というほどではないが、二度ほど一行情報の餌食になったことがある。わたしのような無名な若者の動向に対してもアンテナを張っていたから、職業病の感があった。一度、岡留さんに「ウワシンで連載をやらないか」と誘われたことがある。その頃の自分は場末で飲んだくれてはいても、頭のなかでは文学や人類学など何か高尚なものを書くつもりでいたから、「あなたのところに書くつもりはない」と偉そうに断ったおぼえがある。もったいないことだ。今だったら一も二もなく頷いて、引き受けていることだろう。そうしていれば、立花隆のような立派に書き手になれていたかもしれない。岡留さんの訃報の記事を読むと、1947年生まれとあった。そうか、団塊世代で全共闘世代、つまり両親と同世代だったのか。そんな風につらつらと記憶のなかをさまよっているうちに、レンタカー店の最寄り駅に到着した。

 せっかく南島へきたのに、あまりさわやかではない過去を想起したのは、むかっている先がコザだったせいかもしれない。沖縄本島の南にある那覇から、高速道路の沖縄自動車道を使わず、西海岸沿いを走る国道58号を北上する。ときおり顔をのぞかせる海岸線をちらちらと横目に見ながら、青い道路標識に目をやると、自分が奄美大島にいるような錯覚をおぼえる。もしかしたら鹿児島県南部や種子島の住人も、同じような感覚を抱くかもしれない。「58」と書かれた標識を見るたびに、若いころに奄美大島の大動脈を行ったり来たりしていたときの運転感覚がよみがえってくるのだ。

 というのは、わたしが車で走っていたのが「国道58号線」だったからだ。この国道は沖縄の南にある那覇から恩納村や名護市を通って、ひたすら西の海岸沿いを通り、北端の辺戸岬や「奥」の集落まで通っている。実はその先には目に見えない「海上区間」があって、さらに奄美大島の南端にある古仁屋という町から北の笠利町までを南北につらぬく。そして、海をはさんで種子島の南北をつなぎ、海上区間で鹿児島市までつながっている。「国道」に指定するためには、県庁所在地のような大都市同士を結ぶルールがあり、鹿児島市から種子島と奄美大島を通って那覇市までを結ぶことにしたのだ。海上区間に橋をかけたり水中道路をつくる計画があるわけではない。だが、近年までは鹿児島から沖縄まではフェリーが行き来していた。そのように1本の交通経路で結ばれていれば、ルールとして国道に指定することができたのである。

 だから、生活に欠かせない道として58号線を使うことは、種子島、奄美大島、沖縄本島の島民にとって、海で離れてはいても共有されている感覚なのだ。今回の旅はこの国道58号線に沿ってなされることであろう。ところが、しばらく走っていると奄美大島の58号線とまったく異なる異質な光景が目の前に広がった。那覇をでて浦添市に入ったあたりで、海側に鉄条網にかこまれたキャンプ・キンザーの敷地が見えてきたのだ。これが鹿児島県に属する種子島や奄美大島と、沖縄本島とが風景的に異質な点である。それはパレスチナのヨルダン川西岸地区を移動するときに似ている。巨大な岩々でできた砂漠の土地に、縦横に、斜めに、曲線に、分離壁や鉄条網が行き先をさえぎる。車が走る道路はそれを避けながら縫うようにしてある。

普天間基地普天間基地

 宜野湾市に入ると、すぐに悪名高き普天間基地だった。というより、飛行場のある基地がドーンと構えていて、周囲のせまい空き地に人びとが暮らす雑居ビルや住宅がひしめいている、といったほうが正しい。アメリカ兵とその家族が生活していて、住宅や学校や教会などがあるキャンプ・フォスター(キャンプ瑞慶覧)も、飛行場の北に隣接してある。付近の高台から普天間基地の姿を写真におさめようと、良いスポットを求めて歩いているうちに、喜友名(きゆな)の遺跡群に出くわした。基地の外側が高台になっており、そこから近年に再現された石畳をおりていくと、むかしは水源になっていた7つのカー(井戸)がある。ここは貝塚や竪穴式住居の跡が発見された場所であり、3000年前から500年前の時代につくられたグスク(城や陵墓)の跡も残されている。さすがに歴史文化財を基地の一部にすることはできなかったのか、普天間基地の南端の領地をえぐるようにして遺跡群が分布している。むかしは丘の上の集落から、カービラと呼ばれるその石畳をおりていき、井戸で水を汲んだ女たちが水桶を頭上にのせて、この急坂をのぼってきたのだと想像される。米軍基地のような暴力的な原理の根拠地となっている土地に、太古からの女性的な原理が食いこんでいるあり様が、強い印象を残した。

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 2004年に普天間飛行場に所属する大型ヘリが墜落事故を起こし、本館が炎上してひどく破壊された沖縄国際大学のキャンパスへむかった。その事故では、奇跡的に民間人に被害はでなかったが、米兵3人が負傷した。正門は国際大学というだけあって、モダンなたたずまいを持っている。背後にまわると背中あわせで、すぐに基地の鉄条網があるという近さだ。そこの看板には「米軍海兵隊施設/無断で立ち入ることはできません。違反者は日本の法律に依って罰される」との注意書きがある。米軍施設への不法侵入者は日本の法律で取り締まられるという、米軍施設を日本側がガードしている二重性に気がつかされる。幼稚園や小学校に空から物が落ちてきたというニュースは常に耳にするものだ。この住宅密集地の真ん中に米軍の飛行場があるかぎり、飛行機やヘリコプターの部品の落下や墜落は避けることができまい。基地か住民か、どちらかが移転するしかない。

 聞いたこともない低音の回転音がきこえてきて、驚いて空を見上げると、オスプレイが気持ちよさそうに滑空していった。つい数年前まで、あれほどオスプレイの危険性に対して報道がなされ、配備に対する反対運動が盛り上がっていたのに、今ではオスプレイが我がもの顔に沖縄の空を飛んでいる。いや、沖縄本島だけではなく、関東の横田基地や木更津にだって配備されている。勤め人であろうとフリーランスであろうと、毎月毎月の給与や報酬からは税や年金が天引きされているが、その税金はわたしたちの暮らしの向上のために使われることなく、米軍関係者のための雇用を生みだし、アメリカ政府を満足させるために膨大な税収がオスプレイや戦闘機の購入費にあてらている。その挙げ句に、公的年金を運用する政府の独立行政法人がリスクをおかして市場運用をはじめ、わたしたちの将来設計を明るくするどころか、2018年の年末には莫大な運用損をだしている。どうしてこのような矛盾が放っておかれるのか。それはひとえに、日本列島もオキナワもアメリカの占領下のままだからだ。人びとは政府や官僚がおこなっている不正に対して無関心であり、たとえそれに気がついたとしても、すぐに日常の些事にまぎれて忘却してしまう。

 北上してコザ市にむかう。コザ十字路に着くと、以前にきたときにはなかったのに、市場のある銀天街の表通りに面した建物に、黄色、緑、ピンク色からなる派手なストリート・アートが描かれていた。那覇で会食した大学時代の同窓生である安冨祖君によると「再開発をしようとしてお金をかけたんだけど、失敗したんだよ。どこからもアクセスが悪いコザがむかしの活気を取りもどすのは至難の技なんじゃないか」とのことだ。「むかしの活気」というのは、いうまでもなく沖縄が戦後のアメリカ軍の施政権下にあった時代に、コザの近くに嘉手納基地やキャンプ・レスターがあったので、米兵や軍属相手の飲食店や洋服店やバーで賑わっていたからだ。布川徹郎たち日本ドキュメンタリストユニオンが、1969年から70年の当時はまだ行政上の「外国」だった沖縄に入り、地元のヤクザ、売春婦、バーテン、総評の労働者、黒人のブラックパンサーらを取材をした『モトシンカカランヌー』(71)というドキュメンタリー映画がある。それを見ると、コザ暴動が起きた頃の雰囲気がわかる。そこにはふつうの意味での「市民」はほとんど登場せず、政治的にも社会経済的にも底辺に追いこまれたモトシンカカランヌー(元手がかからない商売=売春婦、ヤクザ、泥棒)たちが跋扈する街であったのだ。

コザ吉原コザ吉原

 十字路から徒歩で坂をあがっていき、コザ吉原のあったあたりを散策する。事前に得られた情報では、遊郭だったコザ吉原社交街(美里一丁目)は廃墟になっているとのことだった。2009年から2010年にかけて「浄化運動」のもとに摘発がなされて、それまで200軒以上あったちょんの間の店舗の半分以上が閉鎖になったといわれる。「バー夜汽車」「松竹」「NICOLE」といったスナックやバーの看板があり、売春街のトレードマークである、建物の内側がガラス窓で透けてみえる飾り窓の建物が立ち並ぶ。「採用 ホステス アルバイト可 バーゆうこ」と貼りだしてあるパネルが物哀しい。「吉原区自治会 社交業組合」の古い建物が残っていたが、ドアは固く閉ざされていた。きれいに改装して「リラクゼーション・スパ」になっている店もある。これは一体どのような業種なのだろうか。それ以上にふしぎに思ったのは、ちょんの間のお店のドアがどれも、銀色の鉄製かステンレス製の頑丈なドアを使用していることだ。どうして、このようなドアが必要だったのか。台風に備えてのことか。警察の摘発があったときに、しばらくのあいだ内側に籠城するために蹴破られないような頑丈なドアにしたのか。それとも、ヤクザ者や乱暴な米兵たちの暴力から、女たちの安全を守るためだったというのか。

 大阪からきたひとりの青年が、コザ吉原で長年商売をしてきた年配の女性たちに取材し、彼女たちの身体に刻印されたシワ、傷、入れ墨などを撮った『LINE』(2008年)というふしぎな肌触りのドキュメンタリー映画があった。彼女たちの身体に刻まれたライン(線)から、この土地で働く女性たちの記憶を立ちあげようという意欲的な作品だったが、あれを小谷監督が撮影して歩いていた頃が、いま思えばコザ吉原が生きていた最後の時代だったのだ。そんなふうに感傷にひたりながら路地から路地へと歩いていると、昼間なのに、時々スナックの店のなかからカラオケの歌声がきこえてくる。誰かの視線を感じて振り返ると、半開きになった木製のドアから長い黒髪の50代くらいの女性が、こちらをじっと見ていた。「そうか、まだ赤線地帯は細々とながら生きているのだ」と気づかされた瞬間だった。しばらくいくと、ドアを開けっぴろげているバーがあった。店内には4、5人くらいが座れる真っ赤なカウンターがある。そこに厚化粧したおばちゃんが座っていた。

「ねえ、お兄さん、飲んでいかない?」

 と、なつかしさを覚える昭和の時代の決まり文句で声をかけてきた。そこには島の人ならではのアクセントがあった。わたしは立ち止まって、女性の姿とお店のなかをじろじろと観察した。

「すみません、今日は車の運転できてしまって、酒を飲むことができないんですよ」
「あ、そうなの? だったらお茶だけでも飲んでいけば」

 そういって彼女は立ちあがり、片手で「どうぞ」と迎え入れた。それで、この店が昼間からカラオケが歌えるスナックではなく、24時間営業の飲み屋でもないことがわかった。店に入って、彼女の話を聞こうかと迷ったが、立ち話でねばって様子を見ることにした。

「どこから来たの?」
「東京です、観光で。あの、やはりこちらはちょんの間だったりするんでしょうか」
「え、やだ、何のこと? お兄さん、飲んでいかないのなら、じゃあね」

 女性は店のなかに入り、引き戸を閉めてしまった。私服の警官か地元の風紀委員と思われたのか。しかし、そのやり取りで充分であった。虫の息とはいえ、戦後の時代からずっと続いてきた沖縄最大の歓楽街が、まだ存在していることを確かめることができたのだ。

 コザ吉原の坂を下りながら、心中には片づかない思いが錯綜していた。沖縄本島にとって21世紀に入ってからの十数年とは、一体どんな時代であったのか。そのあいだにモノレールが完備され、外国人の旅行客が飛躍的に増えた。コザ吉原の赤線地帯は閉鎖に追いこまれ、前時代のものは町から姿を消そうとしている。しかし、相変わらず米軍基地やキャンプは悠々と存在している。沖縄の市民が暮らす町とは対照的に、広い敷地のなかで青々とした芝生が生い茂っており、そこに若い兵士や新兵器がアメリカ本土から送りこまれてくる。ヤマトの人たちが目鼻立ちのはっきりした沖縄出身の歌手やモデルや俳優をもてはやし、盛んに沖縄の青い海と砂浜を求めて観光にやってくる。その反面、本土復帰から高度経済成長期に隠されていたヤマトと沖縄の差別意識は、普天間基地の移転問題をめぐってあらわになっている。その社会的矛盾が噴きだす現場までいき、自分の足で歩き、眼で見て、耳で聴いて、においを嗅いで、他人の声やメディアを媒介とすることなく、自分の身体を反響する楽器のようにして感じなくてはならない。

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 本当はコザ市を歩いたあとで、東海岸のうるま市にある勝連半島に立ち寄るつもりだった。半島の先端には、原子力潜水艦が寄稿するアメリカ海軍のホワイトビーチの港がある。それに加えて、勝連半島は平安座島、宮城島、伊計島、浜比嘉島といった離島と海上道路で結ばれており、独特の地形的なスポットになっている。勝連半島というトポスにどのような歴史的、文化的、社会的な文脈が重層的に流れているのか、わたしが執筆・編集した『半島論』という論集のなかで、沖縄の文化人類学者である前嵩西一馬さんが今までにない意欲的な論考を書いてくれた。だから一度、その場所を自分の足で歩いておきたかった。だが、辺野古で掘り下げた取材ができそうな可能性がでてきたため、今回は割愛して先を急ぐことにした。今回は国道58号線をたどることを旅の基軸にしたいと考えていたので、いったん名護の市街地に入る手前まで行ってから、山奥へ入るように走り、辺野古のある東海岸にむかった。
キャンプ・シュワブのオスプレイキャンプ・シュワブのオスプレイ

 辺野古のキャンプ・シュワブにきたのは、数年ぶりだった。頑丈な銀色の鉄製パイプと鉄条網でさえぎられたゲートの前に、青いヘルメットと青い制服を着た警備員が数人立っている。ゲートのある地点は辺野古岬の根元の部分で、そこから先の岬全体が海兵隊の施設になっている。むろん、一般の市民は立ち入ることができない。平日の夕方で、警察官もデモ隊もいなかった。テレビの報道で、あるいは三上智恵監督による『標的の村』『戦場ぬ止み』『標的の島 風かたか』という基地移設反対運動を取材したドキュメンタリー映画で、おなじみの場所である。国道329号線の反対側には、対照的に移設反対を訴える市民グループによる手づくりの見張り小屋が軒を連ねている。かたわらに黒くて大きな土嚢が詰まれていて、そこに立てかけた黄色いプラカードには「日米による琉球弧の軍事要塞 植民地化 非暴力非不服従で阻止(琉球在地球人)」「日米に奪われた琉球弧の人権・自治・土地を取り戻せ」とある。「アメリカによる」ではなく「日本とアメリカによる」と書いていることが、オキナワ市民の実感を物語っている。

 ゲート前から少し離れたところにある辺野古の集落へむかった。交差点の近くにあるキヨタストアのイートインで、私服姿の米兵たちが名物のタコライスを食べている。車で坂を下り、浜辺の近くにある「辺野浜テント村」をたずねた。沖縄の市民活動家らしいおじさんがビールを飲んでいて、ヒッピー風の30代くらいに見える男性が、差し入れの野菜を整理していた。うながされるままに座って情報を聞いていると、札幌からきたという市民活動家の中年女性が、味噌汁の鍋をもってでてきた。どこからきたのかと訊くので、東京からだと答えた。

「あんたもカヌーに乗りにきたのね」
「カヌー?」
「あれ、違うの。あさっては3・25の大行動の日じゃない。てっきりそれで、東京からきたのかと思ったのに」

 チラシを渡されて見ると「STOP! 土砂投入 3・25海上大行動」とある。夜明け前からゲート前で抗議行動をおこない、別働隊がカヌーで海側から土砂投入を阻止する行動を起こすという。ちょうど良いタイミングだった。ご飯どきだったらしく、夕飯をご馳走になった。生のキャベツに味噌をつけて食べるのは良かったが、それをブツ切りにして入れて、出汁も何も入れていない、味噌だけでかき混ぜた汁は味気なかった。不平不満をいうと、札幌からきた中年女性は「あんたの舌が合成調味料に毒されてるのよ」と言った。その言い方が、全共闘世代で若いころはフェミニストを自認していた母親にそっくりだったので、思わずプッと吹きだした。政治や社会問題に関心を抱く女性には、家庭的な料理をつくることに腐心するヒマなどないのかもしれない。

 翌日の日曜は、キャンプ・シュワブでフェスティバルが開かれる日だった。地元の人たちが、米軍基地の内部に入れる日なのだ。午後1時からだというので、その時間にゲート前まで行ったところ国道は車で大渋滞していた。沖縄県民は幾度となく投票行動で辺野古への基地移設にNOを突きつけているが、その一方で、米兵との交流イベントを楽しみにしていて、そこへ気軽に参加する柔軟な面もある。『辺野古抄』(18)というドキュメンタリー映画では、撮影当時に大学生だった監督が辺野古集落に1年間住みこみ、コンビニのアルバイト店員をしながら、日常生活を撮影していく作品だった。監督は市民運動などのシーンは入れず、辺野古を沖縄本島の田舎にあるひとつの集落として切り取っている。人びとが漁業や農作業に従事し、年中行事をこなし、祭りのときには地元民と米兵が力をあわせて綱引きをすることもある。そんな日常風景だけを淡々と映しだす。辺野古にも闘争ばかりではなく日常があるという当然のことに、改めて気づかされる作品だった。

 運転免許証を見せれば簡単に入れるのかと思いきや、ゲートをくぐったあと、路肩に停車させられて、地元の警官が後部座席とトランクのなかを調べていった。その上、金属探知機で車の底部をチェックする厳しさだ。仮設の駐車場に車を停めて、キャンプ・シュワブのなかをゆっくり観察しながら歩いていく。敷地は訓練場と兵士たちが暮らすキャンプの二者に大別することができ、キャンプには簡素な宿舎がならんでいる。道ばたに星条旗を掲げた派手な消防車があり、家族連れの人たちが記念撮影をしている。小さなショッピングモールに入ると、アメリカに瞬間移動したかのような光景が広がった。ミリタリーグッズの売り場、巨大な洗剤の箱やチョコレートスナック、キングサイズの珈琲やドーナツをセルフで購入するミニバーなど、ファーストフードがたっぷり用意されている。アメリカ人の平均寿命は日本人よりも5歳ほど短いというが、この食習慣では無理もない。モールで一番混んでいたのは床屋だった。兵士たちも休日なのであろう、Tシャツに短パン姿でリラックスした様子だ。白人、黒人、ヒスパニック、アジア系の兵士たちが座って順番を待っており、カットを終えてでてくる男たちは一様に丸刈りだった。そのことが、この場所がアメリカの田舎町ではなく、軍隊の基地だという事実を思いださせる。

 辺野古の海辺にむかって坂を下ると、芝生の生えた広場が兵器のショーケースになっていた。ジープやキャノン砲、水陸両用の戦車やヘリコプター、それにオスプレイまであった。地元の女の子たちが米兵に手を引かれて戦車の上にあがったり、カップルがオスプレイの操縦席に乗って写真を撮ったり、めいめいが楽しんでいる。子どもたちは地べたにうつ伏せになって、米兵に教わりながらライフルを構えたり、銃を手にもって匍匐前進をしたりしている。インスタグラムやフェイスブックのタイムラインは、米兵と地元の人たちが交流する写真であふれていることだろう。その先には野外ステージにいたるまで、バーベキュー、焼き鳥、タイ料理、ホットドッグの店が所狭しと軒を連ねていた。アメリカの片田舎のフェスタに迷いこんだかのようだ。巨大な給水所のようなステンレスのタンクがあって、その蛇口をひねって米兵がめいめいビールをついでいる。ステージ上では地元のロックバンドが、クイーン、メタリカ、レッドホット・チリペッパーズ、ニルヴァーナなど誰でも知っている懐かしい曲を次々に演奏していて、酒のまわった米兵が互いに体をぶつけ合ってスラムダンスをする。コザが繁華街として賑やかだった頃のライブハウスは、こんな光景だったのかなと想像した。

 先夜、国際通りの裏手にある栄町市場で泡盛を飲んでいたとき、那覇出身の同窓生は突然こんなふうに呟いた。「金、金、金だよ。どんな立派なことをいっても、結局みんな仕事と金のことしか考えてない。その力にねじ伏せられるんだ」
「むかしの君なら絶対にそんなセリフいわなかったな」
「いくら移設に反対したって、地元の土建会社や人材派遣会社はすでに仕事を受注済みだ。最後は国と一緒に押し切って、工事を強行するに決まってる」

 野外ステージのまわりの喧噪を抜けて、辺野古の砂浜にたどり着いた。かつて美しい海だったところに、碁盤目上に工事車両が行き来する堤防道路が築かれている。白いサンゴの砂浜は残っているのだが、そこは土嚢によって海から遮られていた。すでに浅瀬には緑色の藻が繁茂していて、海とのつながりを断絶されて窒息しているように見えた。もうすぐ土砂が投入されて、辺野古の海は完全に息の根を止められることになる。わたしが次々に一眼レフカメラのシャッターを切っていると、ひとりの米兵が駆け寄ってきて「ヘイ、何をしている」といった。「君の方こそ一体この島で何をしているんだ」と出かけた言葉を飲みこみ、「ただ海を撮っていただけだ」と答えて、その場から離れた。

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 翌朝は早起きだった。まだ暗いうちに宿をでて、三たびキャンプ・シュワブのゲート前にむかう。辺野古集落の入口にある交差点に車を停め、フェンス沿いに歩いていくと遠くから拡声器の声が聞こえてきた。朝5時だというのに、警官隊を運んできた水色の人員輸送車が停まっている。工事車両や基地外から通勤してくる米兵のためにゲート自体は開いていたが、敷地内を示す白線の内側に数名の警備員がいて、その奥には50名前後の警官隊が整列して待ち受けている。すでに3、40人の市民が集まっていて、ゲート前を右から左へと歩きながら拡声器のシュプレヒコールにあわせて、「辺野古の海に基地をつくるな!」と叫んでいた。警官や私服が小型のビデオカメラをまわしているので、女性のほとんどがマスクやサングラスで顔を隠している。

 そこへ一台の車が那覇方面からやってきて、右折のウィンカーをだして基地に入ろうとする。作業服を着ているので、移設工事の作業員なのだと知れた。するとプラカードを持ったひとりの白髪の男性が車の前に立ちはだかった。表面の「土砂投入をやめろ」、裏面の「民意は示された」という文字を運転席にいる作業員に示して、「あなたも沖縄の人ならわかるでしょう? 好きでこんな仕事しているんじゃないでしょうに」と懇願するようにいう。すると、数人の警官が白髪の男性に駆け寄り、「下がってください、危ないです、危ないですよ」と老人をいなすような言い方で道路脇に押しのけようとする。市民の側も負けじと車を基地に入らせまいとする。車の前で市民と警官がもみ合い団子になったところで、かん高い音でピーッピーッと笛が鳴る音がした。アッという間に警官隊がゲートのなかから走りでてきて、声を合図にV時の角度を広げながら、市民運動家たちを歩道の上へと押しだしていく。

「車両前での横断はただちに止め、歩道の安全ならところに移動してください。すみやかに車両を通してください」  さめた口調で、警官隊側の拡声器から警告の声が辺りに響きわたる。基地外から車で通う将校がきても、あるいは、荷台に多くの兵士を座らせた迷彩柄のトラックが入ってきても、同じような小競り合いがくり返される。わたしはシュプレヒコールのかけ声に応えながら、市民運動家たちの姿をカメラにおさめていた。すると、初老の女性がわたしを呼び止めて、「失礼だけど、あなたどこの誰です。取材なら社名が腕章に書いてあるはずだけど」と詰問する。名刺を渡して、自分は東京からきた映像作家で、市民側を支援するために取材をしていると説明した。すると、ようやく納得して次のように話してくれた。

「疑って悪かったね。でも最近、ネット右翼の人間がまぎれこんで動画を撮って、デモに参加している人たちの顔をインターネット上でさらすの。それからみんなナイーブになってるのよ」

 その朝、ゲート前の空気をがらりと変えるようなできごとが二度ほど起きた。一度目は、辺野古の基地移設と東村高江のヘリパッド建設の反対運動で市民側のリーダーをつとめてきて、拘留された経験もある山城博治さんが到着したときだ。それまでは拡声器で決まり文句をくり返していたのにすぎなかったが、山城さんがマイクを握ると、警官隊側の知人や沖縄の地元出身の隊員たちに切々と訴えかける言葉に変わった。立場を超えて、その場にいる人たちが耳を傾けている雰囲気があった。二度目は、土砂をのせたダンプが国道に姿を現わしたときである。その頃には明るくなっており、時刻は6時半くらいだったか。ゲート前で何度も悶着をくり返すうちに、付近の仕事場でも出勤時刻が近づいてきて、国道に渋滞が発生していた。テント村で味噌汁をご馳走してくれた活動家の女性が、「明後日は大渋滞になるから、車でくるなら気をつけてね」と吹聴していたのは、このことだったのかとわかった。

 渋滞している車のなかにダンプカーがいるのを見つけ、やせ形の女性がサッカー選手のように身軽に警官隊をかわし、両手を大きく広げて立ちふさがる。他のデモ隊の人たちも集まってくる。「車道を確保!確保!」という警官隊の拡声器の怒鳴り声とともに、ヘルメットをかぶった若手の隊員たちが押し寄せる。ダンプカーの前で道ばたに座りこんだ市民を、警官隊がひとりひとり引き剥がし、両手両足をつかんでその体を持ち上げて道路脇に連れていく。「ギャーッ!」とやせ型の女性が叫んだかと思うと、「あなた、今ドサクサでどこに触ったの? セクハラよ、お巡りさん、セクハラされました!」と大声でいった。躊躇して警官隊の手がゆるんだところで中年女性は逃げだし、ウサギのように身軽に跳ねていき、またダンプーカーの前に身を投げだした。

 辺野古の浜から、カヌー隊が海にでる時間が近づいていた。後ろ髪を引かれる思いでゲート前をはなれ、辺野古集落の坂をくだっていく。黄色やオレンジのカヌーをたくさん詰んだトレーラーを牽引して、車がテント村から何台も出ていく。ちょうど間にあったようだ。辺野古の白い砂浜から海上50メートルほどの地点まで、キャンプ・シュワブのフェンスがのびており、砂浜のこちら側とあちら側をわけていた。フェンスのむこうには黒いサングラスと黒いマスクで完全防備し、紺色の制服に身を包んだ自衛隊か警察の隊員がいて、オペラグラスや小型ヴィデオカメラで市民のカヌー隊を見張っている。

辺野古のカヌー隊辺野古のカヌー隊

 カヌーに乗る人たちは一様にウェットスーツを着て、帽子をかぶり、サングラスをかけ、釣り人かダイバーのような格好で、めいめいにストレッチ運動をしている。先ほどまで青空が見えていたのに雲がでてきて、凪いでいた海面が荒れてきた。先遣隊が沖にボートで出ているのだが、風が強くて波が高いらしく、なかなかゴーサインがでない。辺野古や地元の人だけでなく、見ず知らずの全国から応援にやってきた人たちも入っているのだから、安全確認は慎重にやらなくてはならない。そうやって浜で30分ほど待っただろうか、カヌー隊の人たちが焦れてきたところで、ようやく海に出られるという判断が下り、黄色いカヌーが次々と透明な美しい海へと音もなく滑りでていった。

 彼らは海側からぐるりとまわり、昨日わたしがいたキャンプ・シュワブの野外ステージがあったビーチを目指して、オールを漕いでいくのだ。そこに何があるわけでもない。そこに誰かがいるわけでもない。キャンプのなかには、常に居住者を入れ替えつづけている簡素な宿舎と、どこにでもありそうなショッピングモール、運動場や芝生があるだけだ。囲いにおおわれた空虚な敷地にむかって、抗議の声をあげるしかない。そこにはアメリカの田舎から集められた若者たちがいて、青春時代を軍隊で浪費しながら、戦闘のプロフェッショナルになるために訓練されている。訓練が終われば、彼らは別の基地へ送りだされ、また新しい若者たちがアメリカ本土から送られてくる。彼らはシステムの一部として駆動する、代替可能な「兵士」にすぎない。

 ここに問題があるとすれば、あまりに無関係な人たちが敵対する立場に置かれているということだ。アメリカ中からやってきたちょっと勉強が苦手で、健康に自身のある屈強な若者たちと、辺野古集落で漁業や農業や商売を営んできた人びと。出会うはずのなかった両者が、辺野古の砂浜を分断するフェンスをはさんで対峙している。その両サイドに出入りしてみてわかったのは、誰もが自分の責任ではないと自己に言い訳していることだ。米兵や警官隊は上からの命令だから仕方がないと考え、移設工事をする現場労働者は国が決めたことだとする。そうやって現場を虚無感が支配しながら、「移設工事」という巨大な生き物だけが着々と成長をつづけ、海や砂浜の風景を変えていく。

 そんなことを考えながら、沖縄本島の北部にあるやんばるの森を抜けて、58号線を一路北へむかった。本島の最北端にある「奥」の集落まで行き、不可視の国道でつなげられた奄美大島の幻影を海上に見定めるために。


(2019.06.14)


目次
第1回 ふたつの多島海
第2回 黒潮とボニン・アイランズ(前編)
第3回 黒潮とボニン・アイランズ(後編)
第4回 熊野ワンダーランド


連載エッセイ 目次



[著者紹介]
金子 遊(かねこ・ゆう)
映像作家、批評家。『映像の境域』(森話社)でサントリー学芸賞〈芸術・文学部門〉。他の著書に『辺境のフォークロア』(河出書房)、『異境の文学』(アーツアンドクラフツ)、『混血列島論』(フィルムアート社)など。編著に『フィルムメーカーズ』『吉本隆明論集』(共にアーツアンドクラフツ)、『半島論』(響文社)ほか多数。アーツアンドクラフツの公式サイトで「マクロネシア紀行」を連載中。

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