マクロネシア紀行     金子 遊

第8回 与那国島の伝承譚


  どなん島

 世界地図を開けば一目瞭然のことだが、与那国島は沖縄本島から509キロ、石垣島からは127キロ離れており、111キロの距離にある台湾島のほうが近い。この島を歩いてみたかったのは、国境の島における歴史民俗を調べるという目的があったからだ。奄美や沖縄の島々をめぐり、文字による歴史が書き残されていない先史の時代を知るためには、文献調査や博物館での遺物を観察しているだけでは事足りない。ウタキ(御嶽)、ウガンジョ(拝所)、カー(井戸)といった聖地を歩き、そこに祀られるカミの由来譚などの口述伝承に耳をすまし、人びとの声や感情をタイムカプセルのように封じこめた島唄に聴き入り、数百年前のグスクや霊石を実施に目の当たりにすることで、生き生きとよみがえってくる昔日の人たちの息吹というものがあるのだ。

 石垣島の港からくり返し離島への旅をしてきたが、与那国島へのフェリーにだけは乗ったことがなかった。与那国島は方言で「どなん」と呼ばれ、まわりの海が荒れることが多く、断崖絶壁にかこまれていて船を着ける場所も少ないので、一説には渡ることが難しい「渡難」の島というところから呼び名がきているという。実際に石垣島から船で渡ろうとすれば、約四時間半ほどかかるが、季節や天候によっては外海の荒れ模様を受けて、別称で「ゲロ船」と呼ばれる状態になる。小笠原にいったときに24時間のあいだ波に揺られつづけ、黒潮に差しかかるとフェリーが大海に揺られる木の葉のように心許ない存在になる経験をしていたので、今回は迷いなく空路を選んだ。そのように書くと、いかにもこの島が絶海の孤島であるかのように聞こえてしまう。しかし、先史時代の遺跡から発掘される遺物、そして島の人たちから採集された民話や伝説を掘り起こしていくと、大陸、琉球、大和が交易をする航路にあって、さまざまな人たちが行き来し、島人も盛んに大陸や台湾や南方と交流してきた在りし日の姿が見えてくる。

    ティンダバナ

祖納集落から見たティンダバナ祖納集落から見たティンダバナ

 与那国空港から島を一周する道路を沿って、島でもっとも人口の多い祖納集落に入るとき、誰もが驚くのは頭上にそびえる「ティンダバナ」という岩山の存在感であろう。細い迷路のような集落の道を抜け、九月の強い日射しに照らされた琉球瓦の屋根を眺めていく。しかし、集落のどんな位置からであっても、振りむけば、隆起サンゴの岩肌がむきだしになったその断崖が見える。ナンタ浜を囲うようにしてある堤防の先まで行って、あらためてその姿を拝んでみた。ナンタ浜の海岸線にはアダンの林が生えそめ、そのむこうの崖下は青々と萌える亜熱帯の森になっていた。その上に、まるで宇宙船のように空から垂直に舞い降りたといった風情で、一枚の巨大な岩板がのっているのだ。

 その何とも不可思議な景勝地、ティンダバナに登ってみる。祖納集落に面するナンダ浜から住宅地を横切り、交番の裏にあるウブダミティと呼ばれる急峻な坂道をあがっていく。すると、山の中腹あたりに木々が鬱蒼とした公園がある。人の歩ける標高100メートルほどの天然の展望台の入り口になっている。ちょうど岩盤とその下にある森のあいだが歩道のようになっていて、その秘密の小径から祖納集落や白いサンゴ砂の美しい浜、そして青い東シナ海が一望のもとに見渡せるのだった。

犬祖伝説の残る洞窟イヌガン犬祖伝説の残る洞窟イヌガン

ティンダバナの展望台へいく途中に、サンゴ岩が大きな口を開けた不気味な洞窟があった。その場所は「イヌガン」と呼ばれている。「犬神」のことだ。史実かどうかは定かではないが、この場所に関しては島建ての由来、つまりは与那国島にどうやって人間が住むようになったかという創世神話のひとつが残されている。実際に島の古老たちの聞き取りをもとに編纂された『与那国島の昔話』にある「犬婿入り」の民話を短くまとめてみれば、次のようになる。

 最初、与那国島には女ひとりと犬だけが住んでいた。魚を獲りにきて、他の島から漂着した男が助けを求めにいくと、女が食事を食べさせてくれた。だが、絶対に泊まることはできないといわれた。女の正体を見ようと、男が木にのぼって見張っていると、大きな犬がその家に入っていくのが見えた。
 4、5日後、男は道具を準備して同じ木にのぼり、歩いてきた犬を槍で射って、その死骸を捨てた。女の家にいくと再び「ここには泊まれない」といわれたが、犬が帰ってこないので仕方なく女は男と夫婦になり、子どもを7人産んだ。
 男はもう大丈夫だと思い、犬を殺して捨てたことを女に話した。女にせがまれて死骸を捨てた場所を教えると、すっかり骨になった犬を抱いて女は死んでしまった。その7人の子どもから与那国島の住民は繁栄したのかもしれない。*1

 島建ての神話が、人間の女と犬が夫婦になったという異類婚姻譚であることが興味ぶかい。イヌガンの横に建てられた「与那国町教育委員会」による説明書きによれば、もとは久米島から琉球王国の中山王府へむかっていた貢納船が与那国島に漂着し、犬が乗船していた男をひとり一人噛み殺していき、犬と女だけがこの岩屋で同棲するようになったという。民話に登場する男は小浜島の漁夫で、女の美貌にひかれて犬を退治したものらしい。与那国島出身の池間栄三の『与那国の歴史』によれば、ティンダバナの一帯は「野底原」と呼ばれ、大正時代までは密林地帯だった。イヌガンの岩屋の底には湧水が流れているので、そのあたりから、女と犬がその場所で生活したという物語が着想されたのかもしれない。

 もと来た舗装道路へ引き返し、そこをあがってティンダバナの上へでた。現在は私有地の牧場になっており、草原の上で与那国牛が放牧されている。草むらをかき分けて、立て看板も何もないところに、表面の一部が白く変色した大きな石を見つけた。ヌックイタと呼ばれる場所だ。この下に「犬婿入り」で殺された犬が埋められたという謂われがある。池間栄三が書いた『与那国の歴史』を参照すれば、「犬の死骸を埋めた場所を「いた」と称している。「いぬがん」の東南方に大きな扁平の黒石がある。その石が「いた」である。「その下に犬の死骸が埋められてあると伝えられている」とのことだ*2。こうして、犬と女が住んでいたイヌガンの岩屋と、犬の死骸が埋められた黒石を実際に目にすると、神話の世界も架空のものとは思えなくなる。この石を動かして土中を発掘してみれば、女と犬の骨がでてくるのではないかと想像された。

  女首長の集落

 現在の与那国島には、祖納、久部良、比川の3集落しかないが、かつては10以上の村があったようだ。ティンダバナの裏にある台地には、明治の時代まで島仲村という集落があった。いまはサトウキビ畑が広がるばかりだが、複雑な小径やフクギの並木道を歩いていると、時おりサンゴ岩を積んだ塀のあとに出くわしたりして、かつてこの場所に島人の暮らしがあったことがうかがえる。

 旧島仲集落の御嶽や拝所は木々や草むらに覆われていて、なかなか自力で見つけることができなかった。そこで、教育委員会の村松稔さんに案内していただいた。最初に連れていってもらったのは、鬱蒼と茂る森のなかにある草やぶの空き地だった。何もないところに教育委員会が建てた碑があり、そこが16世紀の高名なサンアイ・イソバの出生地であることがわかった。役場でもらった資料によれば、イソバは女首長で村人に開田や牧畜を指導した歴史的な人物だ。兄弟を各集落に按司として派遣し、みずからは大首長となって統治し、外敵から守り、島を統治したリーダーであったということだ。サンアイ・イソバについて語る「久部良祭の由来」という民話には、異文化と接する国境の島ならではの葛藤がつづられている。要約してみよう。

東シナ海を望む久部良集落近くの浜東シナ海を望む久部良集落近くの浜

昔から異国人や海賊は人間を食い物にすると伝えられていた。あるとき唐の国からマーラン船が、島の西にある久部良村に近づいてきた。村で協議するうちに、島仲村のサンアイ・イソバという体の大きい豪傑に相談することになった。村人から話を聞くと、イソバは西崎の林に飛んでいき、クバの大木を根こそぎ引き抜いては、海上のマーラン船にむけて放り投げた。それで船は島から遠ざかっていった。
 村人は海賊をおそれて、西崎からはなれた土地に井戸を掘って暮らしたが、病気でもないのに子どもたちが死んでしまう。5箇所を転々とし、たどり着いたのが今の比川村だった。そして、人間を食べる者が寄りつかないように「久部良祭」をはじめ、ビディリ石(霊石)を立てて拝んだ。サンアイ・イソバが履くような大きな草鞋をつくり、異国人や海賊がこないように祈願し、草鞋を台湾方面の海に流して「こんな大足の人間が住んでいるのだ」と驚かせようとしたのが、久部良祭の由来だと伝えられる。*3

 台湾や中国と海上で国境を接する島ならではの由来譚である。与那国島に巨人が住んでいるように見せかけ、夜間は明かりをつけないように灯火管制をおこない、海賊の侵入を防いでいたことは、笹森儀助著『南島探検』や柳田國男著『海南小記』にも書かれている。ほかの民話では、サンアイ・イソバは神ぶりした(神がかった)知恵者の女であったともされている。海賊船に乗りこんで、鉄鍋のかけらをガリガリと食べるふりをして退散させたという逸話もある*4。使われなくなった島仲集落の跡地を歩いていると、ふしぎな感覚に包まれる。島仲集落の末裔は、人が住まなくなっても先祖の霊は家の跡地に宿ると考えた。それで、現在もことあるごとにこの地にある拝所に拝みにくるという。

 天気の良い日には台湾がぼんやりと見えるこの島では、やがてサンアイ・イソバの超人的な能力が流布される時代は終わりをつげた。17世紀以降、この海域は盛んに日本が貿易に使い、ヨーロッパ人が探検にくる場となっていった。ティンダバナの崖下を田原川が流れているが、その流域には「うらんだ・いち」と呼ばれる尖った岩がある。はたして本当にオランダの商船が船をつなぎとめる舫として使ったものか。それとも、誰かがその形から連想したものか。16世紀後半には島にオランダ船が漂着するようになり、フランスの探検家ラ・ペルーズの艦隊も、蘭嶼島から北上して与那国島の沖まできた。そのような近世や近代の時代をこえて、与那国島の祭りや民話、そして史跡や聖地はきちんとそこに残っている。生命力のつよい植物におおわれた廃村を歩くことは、ランドマークを伝いながら、頭のなかに歴史的なイメージがさまざまに交錯する経験であった。

*1「犬婿入り(1)」『南島昔話叢書10 与那国島の昔話』編著者=岩瀬博・松浪久子・冨里康子・長浜洋子、同朋舎出版、1983年、47頁−52頁
*2『与那国の歴史』池間栄三著、発行者=池間苗、1980年、66頁
*3「久部良祭の由来」『与那国島の昔話』4−9頁
*4「与那国祭の由来」『与那国島の昔話』228−232頁

(2021.01.08)


目次
第1回 ふたつの多島海
第2回 黒潮とボニン・アイランズ(前編)
第3回 黒潮とボニン・アイランズ(後編)
第4回 熊野ワンダーランド
第5回 国道58号線とオキナワ
第6回 久高島のヴィジョネール
第7回 サハリンの渚を巡る
第9回 山麓のネイティヴたち


連載エッセイ 目次



[著者紹介]
金子 遊(かねこ・ゆう)
映像作家、批評家。『映像の境域』(森話社)でサントリー学芸賞〈芸術・文学部門〉。他の著書に『辺境のフォークロア』(河出書房)、『異境の文学』(アーツアンドクラフツ)、『混血列島論』(フィルムアート社)など。編著に『フィルムメーカーズ』『吉本隆明論集』(共にアーツアンドクラフツ)、『半島論』(響文社)ほか多数。アーツアンドクラフツの公式サイトで「マクロネシア紀行」を連載中。

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