一人旅は人生みたいだ 一人旅は人生みたいだ
立松 和平 著
四六判上製/カバー装
272頁
2001年10月発売
定価1,980円(本体1,800円)
ISBN:978-4-901592-01-7
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本文より
父になった日
 インドから帰ってきた日の写真をパネルにして事務所の壁にかけている。いつもこの時のことを忘れたくないからである。
 私は大学を卒業したのだが、就職をしなかった。出版社に就職は決まっていたのに、どうしてもいく気がしなかった。私の本当の望みは小説を書いて生きることで、会社にはいれば大切な時間が失われてしまうと思われたのだ。
 将来のことを考えないわけではなかった。会社にはいることこそ将来を決めてしまうのであり、私はもっと別の道を歩きたかったのである。小説を書いて生きていけるとも思わなかったが、若かったし、世間も高度成長期でなんとなく景気がよかったから、なんとかなると楽観していたのだ。
 就職が決まっていた出版社に内定取り消し願いにいった。会社としても新人を選ぶのに手間と時間と金をかけているのだから、断りにこられても困ったろう。社内で私の希望を受けとめてくれる人があり、たいして問題にもならずに私は辞めることができた。入社していないのだから、内定辞退ということである。その足で、私は山谷の寄せ場にいき、日雇い仕事をした。若い元気さだけが、私の頼みとするところであった。
 私は自由だが、貧乏だった。小説を書いていたのではあっても、世間から認められるにはほど遠く、時がたつにつれ不安は増してはいた。それでも私は元気に恋愛をし、結婚までしてしまった。妻が稼いでくる金で生活をし、私は相変わらず売れない小説を書きつづけ、山谷や築地市場や虎ノ門病院に日銭稼ぎのアルバイトにでかけた。それはそれで楽しい毎日であった。
 そんな日に、大事件が持ち上がった。妻が妊娠をしたのである。当然産むことにしたのだが、生活は大きな変化をむかえる。妻は小さな財団法人に勤めていて、子供を産んでも働いてくださいといわれていたのだが、迷惑をかけてしまうという思いが強かった。しかし、辞めたのでは生活がたちゆかなくなってしまう。身近な何人もに相談すると、お前が働けばそれですむことじゃないかと必ずいわれてしまうのだ。私は身体が丈夫だったし、働くことになんらさしつかえはないのである。
 私が働きはじめれば、すべては解決する。妻も出産に専念し、その後は育児をする。当時は産休や育児休暇という制度が、まだ整備されてはいなかった。お前が奥さんに迷惑かけないように働けばいいんだよとみんなにいわれ、そのとおりだと私も思う。そうは思うのだが、自由を楽しむ放埒な日々をつづけていたので、今さら会社勤めをする気はなかったのである。
「青春と決別してくる」
 これほど気障にはいっていないはずだが、まあこんなようなことをいって、私はインド旅行をしたいと妻にいってみた。絶対に反対すると思っていたのだが、そんなにいきたいのならいってらっしゃいと、妻は軽くいってくれたのだ。私は空を飛ぶほどに嬉しかった。
 私自身は貯金などまったくなくて、それまで妻が会社勤めをして貯めた金がいくらかあった。人生上のいざという時のための金で、たとえばお産の費用のための貯えだ。私はそのなけなしの金を持ち、インドへと旅立っていったのだった。
 九月のはじめに羽田空港からカルカッタに向けて飛び立ち、灼熱のインドの大地を歩きまわった。はっきりした目的などない。旅というと聞こえはいいが、いくあてのない放浪であり、現実からの逃走であった。飢えに駆られて歩きまわっていた青春の日々は、今となっては私には宝の庫のようなものだが、当時は残してきたものへの痛みを感じないわけにはいかなかった。カルカッタで妻からの手紙を受け取り、男の子が生まれたのを知った。私は帰ることにしたのだ。
 東京の妻の実家に、一人で戦争をはじめて一人で敗残兵になってきたような私が帰ったのは、十二月の末頃である。髪も髭ものばし放題、キャラコの汚れたインド服を着て帰った私は、生まれたばかりの子を抱くことも、そばに寄ることも禁じられた。
 風呂にはいって身体をよく洗い、一晩眠った翌朝、妻が子供を連れて私のところにきた。抱いてもよいという許可がおりたのだ。どうせなら写真を撮ろうということになり、妻がカメラを構えた。
 私は柔らかくて壊れそうな小さな生きものを、どう扱ってよいかわからなかった。持っているのが恐くて、思わず懐中にいれたのだった。その瞬間、妻がシャッターを切った。私が父になった日である。
 この子はもう大学院生である。
 過ぎてしまえば歳月の流れは速いものだ。どう生きていったらよいかわからなかった、父になった日のことを、私は忘れないでいようと思う。
著者紹介
立松 和平(たてまつ・わへい)
1947年栃木県生まれ。早稲田大学政経学部卒業。在学中より、文芸誌に小説を発表。70年、第1回早稲田文学新人賞(「自転車」)、80年、第2回野間文芸新人賞(「遠雷」)、93年、第8回坪田譲治文学賞(「卵洗い」)、97年、第51回毎日出版文化賞(「毒―風聞・田中正造」)をそれぞれ受賞。
著書多数。国内外を問わず各地を旅し、行動派作家として多くの読者の共感を得ている。近年は自然環境保護問題に取り組み、積極的に発言している。
※ここに掲載する略歴は本書刊行時のものです。
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